読売ヴェルディの思い出
2009年9月18日:クラブの終焉が近いのではないか――誰もがそう思ってしまうほど、東京ヴェルディの状況は悪化しているようだ。1969年のクラブ発足以来、日本サッカー界の発展期、転換期の中で彼らは大きな役割を果たしてきた。すべての伝統主義者のためにも、そうならないことを祈りたい。
ヴェルディは、私が見た初めての日本のチームだった。1991-92年アジアクラブ選手権で地元の人気チーム、南華と対戦するため香港にやってきたのだ。それまでにも私は香港で数々の試合を見ていたが、それらの試合はすべて、選手たちのミスをからかうのを楽しむような、ひねくれた観衆の前で行なわれる盛り上がりに欠けた試合ばかりだった。香港のサッカーファンは、どちらのチームも負ければ良いと考える、ある意味公平なファンなのだと私は思っていたものだった。
しかし香港にヴェルディ、当時の読売サッカークラブが来たとき、それまでの試合とはまったくの別物だった。湿った夜の空気のなか、コーズウェイベイから国立競技場までの歩道は興奮に包まれ、スタジアムに入ると場内は騒然としていた。ミスを嘲るのでなく、自国を応援するファンたち。試合は間違いなく“まっとう”なものだった。香港のファンが日本側のベンチに物を投げ続け、南華はアジアサッカー連盟から罰金を科せられたほどだ。
それから2年後、1993年10月に私はアジアクラブ選手権でヴェルディ川崎と国立競技場で対戦する香港のチーム、東方に同行した。旺角大球場(モンコクスタジアム)での第1戦を0-1で落としたヴェルディが、ビスマルクと藤吉のゴールで4-2(2戦合計4-3)と逆転したのだった。ヴェルディは日本代表の選手をみな欠いていたのだが、その夜の国立競技場には4万4,000もの観衆が訪れた。日本代表はそのとき、1994年ワールドカップ最終予選のためドーハに行っていたのだ。
そして日本の最終戦、対イラク戦当日の朝、私はヴェルディコーチのフランス・ファン・バルコム氏に読売ランド内のクラブハウスを案内してもらった。そこで見たものは、今まで見たこともないような、廊下に所狭しと積んである箱、箱、そして箱。それはカズ、北澤、武田、そしてラモスへのファンレターの山だった。
その夜、私は日本対イラク戦を見に行った六本木のバーで、東方の外国人選手にばったり遭遇した。そしてそこでもまた、これまで見たことのないようなシーンに出会ったのである。歓喜のお祭り騒ぎは次の瞬間に悲痛な叫びに変わり、そしてイラクの同点ゴールと共にバーは空っぽになった。
読売ランド、そしてドーハ……。色々なことがあった、3日間の日本滞在だった。ヴェルディは読売新聞のスポンサーシップを失い戦ってきた。そして今度は日本テレビの援助を受けることなく生き残っていかねばならない。何とか彼らが生き残ってくれることを祈ろう。残ったものは思い出だけ、なんてことにならないように。
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コメント
地域リーグ規模にまで縮小してでも消滅しないでほしいな
消滅するとマスコミとか、普段サッカーに興味ない人達がギャアギャア騒いでストレス溜まりそうだし
投稿: | 2009年9月22日 (火) 18時04分