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クラマー氏の提言:第2の釜本を探せ

2008/10/16(木)

2008年10月14日:大量のゴールが生まれた月曜日のU-18全日本ユースサッカー選手権決勝の後、ドイツのコーチング教授であるデットマール・クラマー氏の脳裏には、あるただ1人のストライカーがあった。そしてその1人は、彼が目撃したばかりの驚くべき試合、つまり浦和レッズ9-1グランパスという結果の決勝戦――そう、間違いなく9-1だった。もっとも、この日に限っては名古屋が8点になっていなくてよかったもしれないが――に出場していた選手ではなかった。
目をキラリと輝かせながら、クラマー氏は日本のヒーロー・釜本邦茂の思い出をいとおしそうに話しはじめ、どこかにもう1人の釜本がいるはずだ、と語った。日本サッカー協会がしなければならないのは、その人物を探し出し、彼が“アジア病”と呼ぶもの――代表チームに傑出したストライカーがいないことを――を治すことだったのだ。

「60年代に起こったことは、21世紀にも起こりえます」。83歳になったクラマー氏は、埼玉スタジアム2002でそう語った。
「日本は、第2の釜本を見つけるためのスカウティング・システムを構築しなければなりません。それには時間と組織とやる気が求められます。才能はどこかにいるのです。私も目にしてきたのですから。ただし、才能は発掘せねばなりません。我々は1960年代、それを京都で発掘しました。ひょっとすると、次の釜本は北海道にいるかもしれない。その才能を見つけることが、日本の課題です」

1960年代に日本サッカーの基礎を築いた功績から、クラマー氏は“日本サッカーの父”と呼ばれている。その活動の集大成はもちろん1968年メキシコ・オリンピックの日本代表の銅メダル。釜本は大会の得点王となった。クラマー氏はそのチームでテクニカル・ディレクターを務めていた。
「彼が初めて私のところに来たのは1961年。当時は京都の高校生でした。私はジュニア向けのキャンプを開催していて、彼はトライアル・マッチで半分だけ出場した。45分間で2ゴールを決め、私はすぐに彼を代表チームの新選手として抜擢したのです」
「1965年にアジア最高のセンターフォワードになり、1968年にはオリンピックでも目立っていました。彼は16チームが参加した大会で最高のストライカーだったのです。ブラジルやスペイン、ハンガリー、ブルガリア、フランスといった国々も参加していたのに」

1970年代の半ばにバイエルン・ミュンヘンの監督を務め、ヨーロッパの2つのカップ戦でチームを優勝に導いたクラマー氏は、釜本本人にも、第2の釜本を見つけるよう求めた。
「『カマ、君は日本国内を飛び回って第2の釜本を探さなければならない』彼にそう伝えました。釜本二世は、日本にきっといることでしょう」

スカウトが追い求めなければならない資質とは、どのようなものなのか?
クラマー氏はこう答えた。
「自分に自信を持てるという特性です。ゴールを決めたいのなら、自分自身を信じることです。強い意志の力を持っていなければなりません。スキルというものは、そうすることで向上するのです」。

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