横浜での悲報と凱歌
2008年6月3日:月曜日。その日は不安で始まり、悲しいニュースが追い討ちをかけ、そして日産スタジアムでのオマーン戦快勝で幕を閉じた。
今回の試合は、力を出すことなくバーレーンに敗れた日本代表にとって大事な試合であったが、その日の午後遅く、我々がスタジアムに入場する列に並んでいるところに、長沼健氏の訃報が伝わってきた。
その瞬間、岡田監督の選手起用とフォーメーションに関する議論など、どうでもよくなった。日本がサッカー界のパイオニアを失ってしまった、その瞬間には。
日本サッカー協会(JFA)の前会長と最後におしゃべりをしたとき、埼玉スタジアム2002で行なわれた大会に1,000人以上の子供たちが参加してくれたと話していた。長沼氏はこの成果にとても誇らしげで、とても嬉しそうで、目がキラキラ輝いていた。まるで少年が初めてサッカーシューズを履いたときみたいに――。
国歌斉唱前の黙祷と選手たちの黒い腕章が重苦しい雰囲気を醸し出していたが、その後に日本代表は一転して活き活きとしたプレーを見せ、誇るべき結果を出した。
日本は、この試合ですべきことをすべて、楽々とやってのけたのだ。戦術や選手起用なんてどうでもいい。最も印象深かったのは、選手たちの勝利への渇望、積極的な姿勢、威厳。アジアのトップチームとしての地位が問われる試合だったが、選手たちは見事なプレーで実力を証明し、最後まで観客を魅了したのだ。
キャプテン中沢の大胆なヘディングシュートで、試合は動き始めた。バックから怒涛のごとく駆け上がっていた闘莉王を中村俊輔が見逃さなかったがために生まれた、大久保の冷静沈着なシュート。それから、松井の左サイドでの素晴らしい仕事を引き継いだ、中村俊輔のゴール隅に決めた右足のシュート。
予想どおりではあったが、試合後の会話とテレビのリプレイはペナルティエリア付近での俊輔の魔法に焦点が当てられていた。しかし、松井の貢献も見逃してはならない。フランスでプレーしている、この優雅な選手はますます完成度が高まっている。京都にいた、若くて、軽いプレーの選手がいまや風格を身につけ、ワールドカップを目指す日本の中心的選手となったのである。
それから、試合終了のホイッスルが鳴ったときのファンの歓声! そこには、日本の理想の姿、あるべき姿、鮮やかな青の残像があった。
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