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小倉の引退決意

2006/02/20(月)

先日、とある短信が目に留まった。それは小さな記事だったが、私は大きなショックを受けた。
記事の内容は、小倉隆史がJリーグから引退するというものだった。
扱いが小さい理由は明白。現在32歳になる小倉は2002年以来J1でプレーしていないし、それ以前から存在感を失いつつあったからだ。

私は1995年の天皇杯準決勝、鹿島アントラーズを5−1で粉砕した試合で2得点を挙げた、若く絶好調だった小倉についてのアーセン・ベンゲルのコメントが忘れられない。
当時、香港から東京に来ていた私は、その試合が見たかったし、1994年の秋にUAEのアブダビで会って以来ご無沙汰だったベンゲルにも会っていろいろと話をしたかった。94年に会った時のベンゲルは、ちょうどモナコを離れ、グランパスの監督に就任する前だった。
試合後の記者会見で小倉について聞かれたベンゲルは、“彼が望むだけ”良くなると言った。世界最高レベルで成功するにあまりある小倉の才能を理解していたベンゲルからの、最高の賛辞だった。素材と素質はすでに持っている。あとは姿勢と意欲があれば良いのだと、ベンゲルは小倉を評した。

しかし。プロサッカーというものは時として非常に残酷である。わずか2ヶ月後の1996年2月、マレーシアで行なわれていたオリンピック代表チームの合宿で小倉は膝に重傷を負い、残りの予選、そしてアトランタ五輪の欠場を余儀なくされた。
小倉の復活は絶望的と見なされ、1999年にグランパスを去ると、小倉はジェフ、ヴェルディ、札幌と渡り歩き、2003年からは甲府でプレーしていた。
“レフティ・モンスター(左利き/左足の怪物)”と称された小倉は、左利きの日本人選手史上最高の選手の一人として、いつまでも記憶に残るだろう。たくましい体、183cmの長身、彼は全てを持っていた。しかし怪我のために自身の持てる可能性を開花させることなく終わってしまった。

94年5月のキリンカップ。スター選手がひしめくフランスを相手に日本は1−4の敗戦を喫したが、小倉は日本唯一のゴールを決めた。そして、そのシーズンには就任1年目のベンゲル率いるグランパスのフォワードとして37試合で14ゴールを挙げた(天皇杯は5試合で5ゴール)。

記事を読んだ数日後、土曜夜のサッカー番組に出演している元気な小倉を見た。
彼がどれだけ偉大になれたのかは、もう誰にもわからない。しかし彼は自身のキャリアを通して、自身の才能に見合うだけの正しい姿勢と強い意欲を持っていたことを十分に証明した。
そして、これこそベンゲルが望んでいたことだったのだ。

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