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2005年8月

試合の流れを守る野田主審

2005/08/29(月)

数週間前、私はレフェリーを批判するコラムを書いた。
読者のみなさんの反応は賛否両論。ある方は英語で、私の記事は全くの見当違いであるとおっしゃっていた。
確かにそうだろう。だからこそ私はそのコラムの中で、本来レフェリー批判はしたくないということ、そして近代サッカーにおいてレフェリーという仕事はどれだけ大変なことなのか説明したのだ。
そこでバランスを取るために、今回はつい最近のJリーグの試合で素晴らしい仕事をしたレフェリーについて書くことをお許し願いたい。

それは駒場スタジアムで行なわれた浦和対神戸戦。主審は30歳の野田祐樹氏だった。
その試合での彼のジャッジは、試合をいかにして止めないで進行させるか、厳しいタックルとファウルをいかにして区別するか、時間稼ぎをしようとする選手達の心理をいかにうまく読むかなど、まさに教科書通りの内容だった。

前半、アレックスが中盤でヴィッセルの選手2人をかわしたが、ボールを奪われてしまった。アレックスは守備に戻らずその場に倒れこみ、怪我を装いフリーキックをもらおうとした。
ファウルではなかった。アレックスは前半で交代してしまったが、その時に怪我をしたとは思えなかった。浦和サポーターのブーイングの中、野田主審はそのままプレーを続行させた。
その後プレーが止まった時、アレックスは主審に対して非常に腹を立てていたが、主審は正しかった。
子供の遊びではないのだ(少なくともそうだったはずだ)。身体的接触は必ずあるものだし、一人の選手が試合を止めるべきだと思ったからといって、試合はストップしないのである。

その数分後、今度はヴィッセルの佐伯が右ウィングのポンテを掴んだ。野田主審はしっかりとファウルを見ていたが、レッズのアドバンテージを取り、そしてアドバンテージがなくなった時点でようやくホィッスルを吹いた。
これも彼の素晴らしいジャッジ。どちらのチームも文句のつけようがない。

ヴィッセルが2−1と1点をリードしたまま試合も終盤に入り、佐伯が転んだ。誰の目にも彼が時間稼ぎをしよとしているのは明らかだった。野田主審は、やはり見ていた。すぐに佐伯に駆け寄り起き上がるよう言い渡し、試合を中断することはなかった。
佐伯がすぐに立ち上がったのを見て、おそらく野田主審はそう言ったのであろうと想像しただけなのだが…。

試合を見ていた野田主審はどの選手よりもフィットし、速かった。そして常にプレーに遅れることなく的確なポジションで的確な判断を下していた。
そう、それは誰にとっても満足できる試合だった。

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オシムも期待する、阿部のW杯代表入り

2005/08/25(木)

日曜夜の日立柏サッカー場、阿部勇樹が中盤で見せたプレーは、今シーズン私が見たなかで屈指のものだった。
ジェフのキャプテンを務める阿部は、あらゆる場所に出没した。
薩川に強烈なタックルをお見舞いしたかと思えば、その直後に前線に繰り出し、攻撃に加わっているのである。
ディフェンスで素晴らしいプレーをするストヤノフ、中盤を統率する阿部、いつも掴みどころがなくクレバーな羽生。彼らを揃えたジェフが長い時間ゲームを支配し、2−1よりもっと楽なスコアで勝ってもおかしくなかった。

試合後、私は「オシム・ショー」に出席し、いつも魅力的で、楽しい、この監督の発言を待っていた。
これまで、オシムは自分のチームの選手については控えめな論評を下す傾向があり、常に地に足をつけた堅実さ、石橋を叩いても渡らないような慎重さを好んでいた。
だから、阿部のプレーは素晴らしかった、と話を向けたとき、私はオシムに一蹴されるのを楽しみにしていたのだ!

しかし、そうはならなかった。彼は微笑みを浮かべ、次のように話した。
「阿部にはいつも満足しているよ」。
そしてさらに、もう少し努力すれば、阿部は代表チームの一員として来年ドイツに行ける、とも言ったのである。
「どんな努力ですか?」私は質問した。
「あらゆる努力だ。ランニング、タックル、シュート、あらゆる面で向上しなければならない」。

オシムによれば、ディフェンス面における阿部の力量はすでになかなかのレベルに達しており、とりわけタックル、フィジカルでの強さ、プレーの読み、ヘディングは素晴らしいが、攻撃面での成長が必要だそうだ。
「彼は、もっと危険な選手にならなければならない」とオシムは言う。
「中盤から良いタイミングで上がって行けるし、どちらの足でも20メートルあるいは25メートルのシュートが打てる。しかし、もっと努力しなければならない。今後3ヶ月で、あらゆることを10パーセント向上させなければならない」。

オシムは、小野や稲本、中田浩二、福西、遠藤、今野らが名を連ねる守備的ミッドフィールダーのポジションは競争が熾烈だということを十分理解している。しかしそれでも総合力を上げれば阿部にもチャンスはあると感じているのである。
経験豊富な監督からこのような心強い言葉を与えられた阿部は、今後数週間で何をすべきかをよく心得ているはずだ。
それに、チャンスがあるとオシムが言ったのなら、本当にチャンスはあるのである。

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名良橋の穴を埋めた加地

2005/08/22(月)

ジーコ・ジャパンの大きな収穫の一つは加地亮。これは疑うまでもない。
FC東京のDF加地は、ジーコの4−4−2または3−5−2システムの右サイドバック/右サイドウィングバックの座を勝ち取った。
日本代表候補をあれこれ考えていると、おそらくほとんどのポジションで意見が食い違うはず。
ただし、加地は例外だ。

4−4−2では田中隼磨が安定した右サイドバックになれるだろうし、3−5−2システムでは石川直宏が右ウィングバックとして良いかもしれない。
しかし、加地の持つダイナミックさと安定性は群を抜いている。2006年ドイツワールドカップのアジア最終予選、2−1の勝利を収めたイラン戦で代表初ゴールを挙げたのも当然だろう。
それは、クールにサイドキックで決めた加地のまっすぐなゴールだった。もちろんゴールを挙げるには正しいポジショニングが必要だ。
左サイドの玉田の素晴らしい走りと、キーパーから離れていく低い完璧なクロス。キーパー、ディフェンダー、そして大黒が飛び込むが及ばない。そこにいたのが加地だ。ファーポストからきっちりと決めた。
そう、彼にはこのゴールを挙げる資格があったのだ。彼はジーコに寄せられていた信頼に応え、厳しい立場にあるコーチに安らかな眠りをもたらした。ワールドカップの1年前に決まった2つのウィングバックのポジションのうち、左サイドのアレックスは試合の度に、攻撃力は落ちはしたもののディフェンダーとして成長を見せている。
そしていま、25歳の加地がようやく名良橋晃の抜けた穴を埋めたようだ。

私は名良橋の、そして岡田武史監督のファンだ。名良橋と相馬のコンビはアントラーズでも日本代表、特にフランスワールドカップの時には非常に良く機能していた。
しかし岡田監督の後継者、トルシエは名良橋について後先を考えずにポジションを離れ、攻撃参加する傾向があると考えていたようだ。
結局トルシエは右サイド強化のために信頼できる明神、そしてリザーブには市川を選び、波戸は不運にも2002年ワールドカップの日本代表チームから外れた。
しかし今はジーコの信奉者、加地がいる。イラン戦でのゴールは、加地にとってごく当然の結果だ。ただし、ゴールを奪うことが彼のメインの仕事ではない。

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“第3のチーム”にもう一度チャンスを

2005/08/18(木)

またも、ジーコは彼の「影の代表」をひたすら信頼し、このチームにこだわり続けるようだ。
今夜、横浜で行なわれるイランとのワールドカップ予選に、ジーコは韓国の東アジア選手権で北朝鮮に0−1で敗れたメンバーを再び起用する。
同大会の中国戦そして韓国戦で結果を出したのに、“第3のチーム”を控えに回すつもりなのだ。

個人的には、ジーコはまた判断を誤ったと思う。
あるいは、一部の選手たちに代表でアピールする最後のチャンスを与え、それから欧州組と国内組の組合わせを考え、本番に向けての総仕上げに臨むつもりなのかもしれない。
私としては、少なくとも茂庭、今野、村井の3人は今度の試合でも見たいし、代表のレギュラーでもやれるんだとアピールするチャンスを彼らに与えて欲しい。

以前にも書いたことがあるが、トップクラスの選手を全て招集できたときの先発メンバーについては、文句はあまりない。しかし今回は、東アジア選手権で活躍した選手たちに代表の一員としての地位を築かせ、実績を残している選手たちにプレッシャーを与えさせても良いのではないだろうか。
まるでジーコはすでに最強チームの先発とその控えを決めていて、その座は来年の夏まで「一見さんお断り」の状態になっているように思える。たとえ新しい選手にチャンスを与え、その選手がどんなに素晴らしい結果を出したとしても…。

東アジア選手権では、古株の選手たちがヨーロッパのクラブに戻っていたので、ジーコは新顔を招集するしかなかったのだが、イラン戦では東アジア選手権以前のように新顔を見過ごしにするつもりのようだ。
今回の試合に欧州組を招集したくないのなら——それも至極もっともだが、ジーコはなぜ、こうした厳しい試合で東アジア選手権組を徹底的にテストしようとしないのだろう?

ワールドカップ予選だから、日本はなんとしても勝ちに行かなければならない。今後の数ヶ月でこの試合ほどプレッシャーのかかる試合はないだろう。
イランはスピードがあり、フィジカルも強いだろうから、茂庭や今野、村井といった選手たちにはよいテストになる。ジーコが彼らの能力を疑うのは、今回の試合で彼らを試してからでも遅くはない。自分の「ファミリー」以外の選手をジーコはなかなか信用しようとはせず、そうすることをほとんど嫌悪しているのである。

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中田がついにイングランドへ

2005/08/15(月)

このコラムを皆さんが読んでいる頃には、中田英寿のボルトン・ワンダラーズ移籍が決まっていれば良いのだが…。
もうそろそろ、イングランドへ移るべき時だろう。
サッカーキャリアの歯車が狂い始めたパルマ時代から、中田はイタリアであまりにも無為な時間を過ごしてきた。
今回、当時パルマを率いていたプランデッリ氏がフィオレンティーナの監督に就任し、それに伴い中田の移籍も容易に予想できた。

私は少なくともこの2年間、中田はイングランドへ移るべきだと言ってきた。そういう意味では、彼のエージェントがきちんと仕事をしてきたとは思えない。
中田は英語も上手いし、パワーもあり頑強で、タックルも厭わず挑戦を怖れない。彼のプレースタイルはまさにイングランドスタイルにマッチしているのだ。
彼は自身の能力ほどにはゴールを挙げられていないが、ボルトンではきっとうまくやっていけると思う。

ボルトンはイングランド北部、私の故郷の近くのペニンヒルズの反対側にある。
イタリア、特にフローレンスという美しい町からイングランドへ移籍することは彼にとっては大きなカルチャーショックだろう。しかし中田はそろそろ復活しても良い頃だ。
ボルトンでは出場機会も得られるだろうし、スタジアムが半分空席のイタリア(フィオレンティーナは違ったが)と違ってサッカーを取り巻く環境は新鮮でエキサイティングなものになるはず。
これこそ中田に必要だったものだし、マンチェスター・ユナイテッドやアーセナル、チェルシーといったプレミアリーグの強豪相手に彼の力を見せつけ、きっとうまくやっていってくれるはずだと私は思う。

もちろん、中田はロンドンのクラブに行きたかっただろう。2年ほど前にはチェルシー移籍が濃厚に思われたが、チェルシーはパルマのムトゥと契約してしまった。
しかし中田にはまだまだ時間が残されている。そして日本のサッカーのイメージをより良くする力を持っているのだ。
周囲がいかに疑問符をつけようとも、私は彼の才能と意欲を信じている。
彼はまだまだ群を抜く日本のベストプレーヤーなのだ。

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ガッザとシェリル〜1992年の思い出〜

2005/08/11(木)

ポール・ガスコインが今なおニュースになっているのは不思議な感じがするし、やりきれない気持ちになる。
先日、私はある短い記事を読んでいた。見出しは「妻を愛してなどいなかった、とガッザ語る」。
内容は、見なくたってわかるだろう!
記事中でガスコインは、シェリルとの結婚は2人の子供を手元においておくための方策にすぎなかったと話している。
この発言は、私には驚きでもなんでもない。1992年、私はローマでシェリルに会ったのだが、彼女に良い印象は受けなかった。

私はオリンピックの取材のため勤務していた香港の新聞からバルセロナに派遣されていたのだが、スペインからの帰り道はヨーロッパのどの主要都市にも立ち寄ることができた。
航空会社のリストを見て、私はローマを選んだ。ガスコインがラツィオと契約を結んだばかりだったからだ。
イングランドでニューカッスル・ユナイテッドの担当記者をしていたときに、私はガスコインとかなり気心が知れた仲になっていた。そう、今でも彼のことだけで2ヶ月分以上の記事が書けるほど!
それはともかく、ガスコインはテニスもすばらしく上手で、釣りも大好きだった。ノーサンバーランドの沖合まで釣りに連れて行ってもらい、ガッザが釣ったサーモンをディナーで食したというのが私の自慢。でも、それもまた別のお話。

話を戻すと、ある晴れた日の朝、私はラツィオの練習グラウンドの外でガッザが登場するのを待っていた。
1年前にスパーズの一員としてとしてフォレストとFAカップ決勝戦を戦ったときに酷い怪我を負った彼。その膝のリハビリを依然続けており、他の選手と離れて別メニューのトレーニングをしていた。
2時間後、彼が真っ赤なBMWだったか、メルセデスベンツだったか(13年も前のことだからね!)でやって来て、私を見て驚いたような表情をした。
「おたく、こんなところでなにやってるの?」。
彼は強い北東部の訛りで尋ねてきた(実際は"What yee deein' 'ere?"と言ったのだが、英語に翻訳すると"What are you doing here, kind sir?"となる)。
「君に会いに来たんじゃないか。何だと思ったんだい?」と私は答えた。
「今夜(“tonight”ではなく“toneet”)は、どこに泊まるんだ?」と、彼。
私は、コロシアムのすぐ近くにあるダウンタウンのホテルを予約してあると言った。

「あいにくだな」と彼は言った。「仲間は昨夜みんな帰っちゃったし、大きな屋敷には俺しかいないんだけどさ.…」
私は、がっかりさせられるのを待った。
「でも、これから空港にシェリーを迎えに行かなくちゃならないんだ。彼女は喜ばないだろうがね」。
普段はとても無頓着で、陽気なガッザが、別人のようになっていた。
空港に向かう前、彼は練習グラウンドに案内してくれ、私はドル、リードレ、ヴィンター、ベッペ・シニョーリといった選手たちを間近で見た。

彼が戻ってくると、シェリルが助手席にいた。
ポールは、ニューカッスル時代からの親しい記者として——タブロイド紙のゴシップ・コラムニストではないという意味を込めて——私をシェリルに紹介しようとしたが、シェリルは興味がなさそうだった。とても気取った感じで横を向き、ポールは困惑しているようだった。
そのとき、私は彼を気の毒に感じ、こう思った。「なあ、ポール、なんでこんなことになっちゃったんだよ?」

ブロンドの髪、スーパーモデルのようなファッション。非情さと抜け目のなさを持った彼女の人生の目標はサッカー選手の妻になることであり、今、彼女は大当たりを引いたのだ。
ポールが彼女を愛してなんかいなかったと実際に言ったとしても、彼女が彼を愛してなんかいなかったのも確かだ。
私は当時もそう思っていたし、今もそう思っている。
彼女は自分の目的を果たしただけなのだ。

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ジーコはイラン戦に新顔を残すべき

2005/08/08(月)

韓国で行なわれている東アジア選手権の結果の良し悪しに関わらず、ジーコは今回の日本代表の戦いぶりから多くのことを確実に学んだはずである。
まず、これほど多くの新しい選手がブルーのユニフォームに身を包んだのを見るのは、新鮮なことだ。
これはジーコがずっとできていなかった部分。これまで、明らかにチーム改革が必要な時でもジーコは同じ選手を使い続けてきた。
田中達也、今野、村井といった選手たちは少なくとも日本代表のプレーに活気を与えた。
彼らに代表チームに慣れる時間が残されているかどうかは別として、仮に1年前に選出されていたとしたら、今頃どんな選手になっていただろうか。

しかし、これまでの控え選手にこだわってきたことについては、ジーコなりの理由がある。その彼らにも今ではポジションを守るというプレッシャーがようやく生まれた。
ある日本のフットボール・ウォッチャーが、ジーコは“ジーコファミリー”――と言ってもそれは別に兄弟のことではない――を作り上げたのだと私に言ったことがある。
選手たちはジーコと共にワールドカップ(W杯)予選を戦い、アジアカップを勝ち抜いてきた。ジーコの考え方で彼らより優れた選手がいないとしたら、なぜ変えなければならないのだろう?
結局のところ、なぜジーコがチームの将来を考えなければならないのかということだ。

彼にとって大事なのは“今”なのだ。日本代表が勝ってさえいれば、自身が去った後のチームのことを考える必要があるのだろうか。
彼の評価は来年の夏、ドイツで出る。そしてそのためには経験豊かな選手が欲しいのだ。
ただ、ここでの大きな疑問は「ジーコの判断は正しいのか」ということ。
名選手は必ずしも名監督にあらず。コーチングの才能を持って生まれた人間にとっては、ハイレベルなプレーができることは必ずしも必要ではない。

ジーコがこのまま新しい選手の何人かを使ってくれることを願おう。特にイランとの“デッドラバー”で…。
ちなみに“デッドラバー”というのはテニス用語で、団体戦で勝っても負けても何の意味も持たない試合という意味である。
日本とイランはすでにドイツW杯の出場権を獲得している。しかしジーコにとって、この試合は東アジア選手権のために選んだ選手たち――特に今野、村井、茂庭(彼は初選出ではないが)そして田中達也――にチャンスを与える良い機会だ。

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遅すぎる平山のプロ転向

2005/08/04(木)

ここ最近ずっと、日本のある選手が私にはどうも不可解な存在となっており、その状態がいまだ続いている。
その選手とは平山相太である。平山は現実のサッカー界ではさほど大きな功績を残していないにもかかわらず、日本ではメディアのお気に入りとなっている。
読者の皆さんならお察しいただけるかもしれないが、私には、メディアが平山をこれほど持ち上げる理由が理解できない。

オーケイ。平山は年齢のわりに背が高い。同世代の日本人選手のなかでは際立った長身で、よって学生レベルでは空中戦で抜群の強さを発揮できる。
オリンピック代表のデビュー戦でも、ファーポスト側に素晴らしいヘディングシュートを決めているが、やはりまだまだ未熟。これから一皮剥ける必要がある。
正直なところ、平山にオリンピック代表のエースを任せるのは時期尚早だったように思えたし、彼に多大の信頼を寄せたのは山本監督の失敗だったと、今でも思っている。高原が使えない状況ではあったが、鈴木隆行でもはるかに良い仕事をしていただろう。

しかし、これは過去の話。このコラムの論点ではない。
先日、平山がしばらくの間フェイエノールトの練習に参加するという記事を読んだ。興味深い動きだし、驚きでもある。というのも、平山は筑波大学での活動に専念し、大学を卒業するまでプロでプレーするつもりはないのだと思っていたからだ。
国見高校卒業後にJリーグのクラブに入団せず、筑波大学に進学するという平山の選択は、私にはまったく不可解なものだった。22歳で大学を卒業し、それからプロになるというのでは6年遅いのである。
無駄にした6年の間に、若い選手は実戦で非常に多くのことを学ぶことができる。22歳からステップアップするのはとても難しく、26歳から28歳を選手としてのピークと考えれば、そこに到達するために残されている時間は6年か7年しかないことになる。
おそらく平山も後悔していて、それがフェイエノールトの練習参加という動きに結び付いたのかもしれない。

フェイエノールトが獲得するとしたら、平山にとっては申し分のない状況となるだろう。小さなリーグの大きなクラブでプレーし、特定の試合だけに出場させ、じっくり育てる方針を持ったコーチの管理、教育を受けられるのである。
日本では過大評価されているが、平山はまだ完成品には程遠い。しかし、オランダで彼が自分自身の本当の価値を知れば、まだまだチャンスはある。あるいはJリーグでプレーしても、同じような学習効果は得られるだろう。
平山が今後も日本に残り、筑波大学でプレーするのなら、それは時間の無駄だ。そして日本では、彼の価値、あるいは潜在能力が正当に評価されることはないだろう。

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決断すべきはクラブ。FIFAではない

2005/08/01(月)

FIFA(国際サッカー連盟)の事務総長ウルス・リンジ氏は、ヨーロッパのクラブチームによるアジアツアーに批判的である。
リンジ氏は、基本的にレアル・マドリード(スペイン)やマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)がアジア遠征を行なっても、アジアのサッカー界にとって何のメリットもないと言う。
本来なら地元アジアの試合に注がれるべきお金が、ただでさえ裕福なヨーロッパのクラブチームをさらに豊かにしているだけだ、と。
果たしてそうだろうか?
個人的には、全くそうは思わない。
思うに、ヨーロッパのこうしたクラブチームの遠征は世界的にサッカーをプロモートできるし、ファンにとっても世界のスターに近づくことのできる良い機会だ。

1〜2週間前、私はハンブルガーSV(ドイツ)とバルセロナ(スペイン)を見に、埼玉スタジアムまで出かけた。
最初のゲームはまさに時間の無駄、知っている選手なんていやしなかった。
高原のいないハンブルガーが埼玉スタジアムでプレー?一体誰が見に行くというんだろう?
高原がいるハンブルガーが、静岡スタジアムエコパで彼がかつて所属していたジュビロ磐田と戦う…。これなら合点もいくというものだ。

埼玉でのバルセロナ戦は、ずっとマシだった。
浦和美園行きの電車も親善試合の雰囲気たっぷりで、バルセロナのユニフォームに身を包んだ多くのファンと浦和の赤いユニフォームのファンで溢れていた。
ロナウジーニョやエトオを欠いていたとはいえ、バルサは強いチームを送り込んできたし、試合はサポーターたちにとってそれなりに楽しめるものだった。
“それなりに”と言ったのは、そもそも私がこういうゲームが好きではないから。
サッカーはエンターテイメントではなく、情熱であり緊張感であり、そして結果こそが全てである。

スポンサーに遠征費を出す財力があり、ファンが望んでいるのなら、それを批判するべきではない。
リンジ氏はアジアのクラブチームやリーグのプロらしからぬ行ないを批判した方がよっぽどいい。
近年、特に中国ではあまりにも不正行為が多い。それなのになぜ、スポンサーはこうしてアジアの地方リーグに無駄金を落としていくのだろう。
Jリーグはアジアで最も魅力的なリーグで、ファンやスポンサーそしてテレビマネーを惹きつける。
ファンがレアル・マドリード対ヴェルディ戦、あるいはジュビロ戦を見に行かないというなら、リンジ氏の批判も理解できる。
しかし、彼らが試合を見に行くのになぜFIFAが批判しなければならないのだろう?
こういう試合をやめるかどうかはクラブやファンが決めれば良いことであって、FIFAの口出しするところではない。

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