カメルーンの“紳士な巨人”エムボマ
“その時”は、意外に早く訪れた。
さまざまな怪我と長きに渡って戦ってきたエムボマにとって、引退発表は仕方のないことだった。
ひょっとするとJリーグファンの方でも、彼がまだ日本に、ヴィッセル神戸にいたということを知らなかったという人も少なくないだろう。
たとえそうだとしても、寂しくなることでしょう。
“優しい巨人”のニックネームがピッタリな選手は誰かと尋ねられれば、それはパトリック・エムボマである。いや、彼の人間性に触れた人はみな心が暖かくなるのだ。「優しい」と言うより「紳士」という方がよりふさわしい。
長身で恐れを知らないカメルーン人の彼は、ガンバ大阪での最初のシーズン、Jリーグに火をつけた。彼の素晴らしいゴールはテレビ解説者をも感動させた。
どの角度からもボールをねじこむ彼のゴールはパワフルで、ボールを受け止めたGKごとネットにふっとばすか、ネットを突き破るかと思われるほど。
エムボマは来日する前の数シーズンをフランスですごしていたが、結果は出せずにいた。しかし、日本で挙げたこれらのゴールがヨーロッパのチームの目に留まったのである。
1998年フランスワールドカップ、私は凍てつくような夜にトゥールーズで行なわれたカメルーン対オーストリア戦を観た。試合後はエムボマがガンバを離れ、イタリアのカリアリに移籍するという話で持ちきりだった。
エムボマは選手として全盛期のうちに最高峰のイタリアで自身を試してみたいと考え、1998年のシーズン半ばに日本を去ることを決断した。
その彼が東京ヴェルディ1969に移籍して日本に戻ってきたのだ。私は少なからず驚いた。
彼はカリアリで、またその後パルマで苦戦していた。そしてさらにプレミアリーグのサンダーランド、そしてリビアでプレー。そんな時にヴェルディから誘いが来たのだった。
エジムンドに代わって、経験豊富なチームリーダーとしてエムボマは華やかというより安定したプレーをしていたが、故障によりヴェルディでも出場機会は減っていった。
イルハン・マンスズ獲得という高価な過ちを犯したヴィッセルではあったが、エムボマにラストチャンスを与える決断を選んだ。しかし、うまくはいかなかった。
それでもなお、エムボマは日本のファンからこよなく愛されていくことだろう。Jリーグが彼のサッカー人生の幕を開けたも同然で、彼も日本には恩義を感じているだろう。
2001年のコンフェデレーションカップの時、私は新潟のホテルでカメルーン代表チームを訪ねた。
選手たちが幸せな大家族のようにロビーで座っていた時、エムボマの携帯電話が鳴った。
他の選手たちはエムボマに配慮して静かになった。するとエムボマは子供の声真似をして「もしもし」と電話に出た。
チームメイトは大笑いでフロアを転げまわった。
エムボマが日本のサッカー界に与えたものは大きく、また日本が彼に与えたものも大きい。
カメルーンの“紳士な巨人”の時代には幕が下りた。しかし、人々の中で彼が忘れ去られることはないだろう。
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