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サッカーの世界を変えたミケルス氏

2005/03/07(月)

いつもはここで、日本のサッカーについてコラムを書いている。私は日本に住み、日本のサッカーを見ているからだ。
しかし今回は、サッカーについてもっと全般的なことを書こうと思う。金曜日(4日)、私はある記事に大きなショックと悲しみを受けたのだ。
記事というのは、1974年のワールドカップで世界に衝撃を与えた“トータル・フットボール”の生みの親、オランダの名将リヌス・ミケルス氏の死去についてだ。

その年の夏、私は自宅のテレビでワールドカップ(W杯)西ドイツ大会のオランダ代表を見ていた。そして、14歳だった私の人生が変わった。
英国人は海外の趨勢(すうせい)については無関心。66年のW杯を制したこともあって、私たちはいまだにイングランドが世界のトップだと思っていた。
イングランドが優勝したのは、西ドイツ大会のわずか8年前のこと。にもかかわらず、ツキに恵まれたポーランドのGKトマシェフスキー(伝説の名将、ブライアン・クラフにテレビの解説で“道化師”と呼ばれた)によって西ドイツへの道を断たれた。
そう。イングランドは西ドイツ大会には出場さえできなかったのだ。しかしそれでも私たちは“ジョニー・フォーリナー”よりも優れていた(ここで言う“ジョニー・フォーリナー”とは個人名ではなく、外国および外国人を指す代名詞だ)。
これは偏ったイギリスメディアによる独断とプロパガンダだった。

そこに現れたのが、ヨハン・クライフとその仲間達!
ワォ!これがサッカーだ!トータル・フットボールだ!
“戦術家”として知られたミケルス氏は才能溢れる選手を自由に使いこなし、知力、フィットネス、的確な技術、そしてコミュニケーションを必要とするシステムを考案した。
選手全員が攻撃に参加し、ポジションを変え、そして一番近い相手選手をマークすることから、ミケルス氏自身は“プレッシング・フットボール”と呼ぶことを好んでいた。
彼らの走力と視野はサッカーを活性化しただけでなく、スペースと時間を奪うことで対戦相手にサッカーをさせなかった。

74年W杯で私が覚えているのは、天才クライフがまるで自分のオーケストラを指揮するように緑のピッチ上をオレンジで覆いつくす光景だ。
彼らの美しいサッカーは美しいゴールを生み、次の攻撃がどこから来るか掴めず息を切らせる相手チームを置き去りにした。
ウルグアイの攻撃的なアプローチでさえ、優雅でタフなオランダには歯が立たなかった。彼らはこの領域においても十分対応できたのだ。1次リーグではブルガリアが、2次リーグではアルゼンチン、東ドイツ、そしてブラジルが、まるでハエが叩かれるように一蹴され、唯一、柔軟性に富んだスウェーデンだけが1次リーグで何とかスコアレスドローに持ち込んだ。

ミュンヘンでの決勝では、オランダが開催国の西ドイツを引き裂く様を見た。ミケルス氏率いるオランダは、西ドイツがボールに触る前に先制したのだ。
キックオフからオランダは細かくパスを繋ぎ、クライフがエリアに飛び込み、へーネスからファウルを受けた(よく間違われるが、フォクツではない)。
そのPKをニースケンスが決め、オランダが1−0とリード。あとは、オランダがさらに何ゴール決められるか、だった。
しかしチーム内に驕りと慢心が広がり、結局オランダがそれ以上ゴールを挙げることはなかった。
西ドイツのブライトナーがPKで同点にし、そして“爆撃機”ミュラーが決勝点を決めたのは、まだ前半のこと。オレンジの魔術にハマっていた私にとって、それは生涯忘れられない1日だった。

その後、1988年に、北東イングランドでサッカーレポーターをしていた私は西ドイツで開催された欧州選手権(ユーロ)を取材した。ミケルス氏率いるオランダはデュッセルドルフでファンバステンのハットトリックでイングランドを粉砕。ハンブルグで行なわれた準決勝では、やはりファンバステンの決勝点で2−1で西ドイツを破った。
まさに、胸のすくような復讐劇。
ミュンヘンでの決勝では、フリットとファンバステンのアクロバティックで止めようのないボレーでソビエトを破った。
ミケルス氏のオランダはようやく、1974年に受け取るべきだったもの…トロフィーを手に入れたのだ。

ミケルス氏の死去は世界のサッカー界にとって大きなショックであり、寂しい1日となった。
彼は戦術的にゲームを変えただけでなく、ファン、コーチ、そして選手にとっても全く新しい世界を開いた。
リヌス・ミケルスとトータル・フットボール、そして74年W杯で世界に魔法をかけたオレンジの魔術師たちを、人々は忘れないだろう。

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