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2004年2月

いまだ実行が疑われる、FIFAの計画

2004/02/26(木)

 横浜F・マリノスは、アジア・サッカー連盟(AFC)のチャンピオンズリーグ制覇に向けて順調にスタートした。
 2週間前にベトナムでビンディンを3−0で破ったあと、若い選手で構成された岡田武史のチームが、グループGの2戦目である、火曜日の夜の三ツ沢でのペルシク・ケディリ戦に4−0で快勝した。 マリノス・チームは、昨年Jリーグの王者となったチームとはまったく別のチームのようであった。というのも、年長の選手たちのほとんどが、A3・NISSANチャンピオンズカップのため上海にいるからだ。

 両チームの選手たちがピッチに向かう前、私はロビーをうろつき、選手たちのムード、モチベーションをすぐ近くから観察した。
 最初、私はマリノスの選手たちをボール・ボーイだと思っていた。FIFAのフェアプレー・フラッグを持って行進するのを待っているのだと。
 だが、そうではなかった。彼らがマリノス・チームだったのである。インドネシアから来た相手チームは、間違った大会に来てしまい、ユース大会でプレーするのかと思ったに違いない。

 寒い夜であったが、3,500人以上のファンが観戦していた。しかも、ファンの多くはキックオフの2時間ほど前から整然と列を作っていた。
 日本のファンの規律正しさと忍耐強さには、私はいつも感動する。なぜなら、イングランドでは、誰もがキックオフの10分前までパブにいて、それからスタジアムに向かって猛烈な勢いでダッシュするのである。その際、もっとも大切なことはまずトイレを見つけること。さらに、キックオフまでに用をすませ、ハーフタイムまでに2度目のトイレ訪問の必要がないように祈ることである。
 この戦術の唯一の問題点は、たとえば2万人いるスタジアムでは、1万9,000人が同じことを考えている点にある。その結果、苦肉の策が必要になることもしばしばある。苦肉の策がどのようなものであるかについては、敢えてここでは言及せず、みなさんの想像力に委ねることにしよう。

 健全な話題に戻り、緑に囲まれた三ツ沢の話しをしよう。
 岡チャンの望みは、AFCチャンピオンズリーグ制覇である。そうなれば、FIFAが2005年12月に日本での開催を検討している世界クラブ選手権に、マリノスはアジア代表として出場することができる。
 しかし、クアラルンプールのAFCの声明によれば、2004年あるいは2005年のAFCチャンピオンズリーグ優勝チームがアジア代表となり、ヨーロッパや南米、アフリカ、CONCACAF (北中米カリブ海サッカー連盟)、オセアニアの代表チームと戦うかどうかは未定であるらしい。
 この声明が意味するのは、ホスト国のクラブが予定されている参加6クラブに入らないというような事態もありえるし、そうなればファンの関心が大きく落ち込むということである。
 ともかく、マリノスとジュビロにはなんとかして今年のAFCチャンピオンズリーグに優勝してもらい、レアル・マドリードあるいはマンチェスター・ユナイテッドとのゲームを実現させて欲しいものである。

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岡田監督からジーコ監督への賢明な助言

2004/02/23(月)

不甲斐ない出来だった対オマーン戦の翌朝、私は電車で東戸塚へ行き、横浜F・マリノスの練習グランドへタクシーを飛ばした。
間近に迫った上海でのA3 NISSANチャンピオンズカップについての取材の他、前夜の試合について岡ちゃんに聞くことも私の目的だった。

オマーン戦は、個人的には最悪だったと思っている。
選手達は何をすべきなのかさえ全くわかっていないように見えた。パスはあらぬ方向へ飛び交い、ミスだらけの時間が過ぎていくとともに、選手達から自信が消えて行く。そして何よりも最悪だったのはオマーンに、もしかしたら勝てるかもしれないと思わせてしまった事だ。

とにかく、岡ちゃんはもちろんそれほど批判的でもなかったが、日本代表を唯一予選からワールドカップへと導いた彼の意見には重みがある。
岡ちゃんの主要な論点はこうだ。

ジーコ監督には二つの選択肢があった。体調も万全で出番をウズウズしながら待っているJリーグのチームからの選手達を選ぶ事、もしくはヨーロッパから彼が呼び戻した選手達(その中の何人かはシーズンのほとんどをベンチで過ごしたり、故障していたりだが)を使う事だ。
明らかにジーコ監督は後者を選んだ。だから俊輔、イナ、そして“アツシ・ゴール”を選んだ。

イナはプレーしていたのかな?私には彼が見えなかった。
長い故障欠場の後、レッジーナから戻ってきたばかりの俊輔がなぜ90分もプレーしたのだろうか?
ヤナギは? まあ、彼は最近の対チュニジア戦、対ルーマニア戦、そして対イラク戦で得点をあげているのでよしとしよう。

岡田監督は小笠原の投入がチームにまとまりをもたらし、久保は体調が万全だったと語った。
久保はもちろん、彼のロスタイムでの冷静なゴールでチームを救い、そして多分ジーコ監督のクビを救った。

岡ちゃんの意見をジーコ監督は心して聞くべきだ。ジーコが監督になった当初から私はよく言ってきたが、ジーコ監督はお互いにうまく合わせてやってくれるだろうという希望のみで、いわゆるオールスターチームを選んでいるにすぎない。
そしてそれは機能していない。

日本サッカー協会が、再び沈みつつある「日本丸」を救うには岡田監督の必要性を心しておくことだ。

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疑問に思う大久保の処遇

2004/02/19(木)

 大久保嘉人は、なぜなのだろうと悩んでいることだろう。
 先週の木曜日、ジーコ・ジャパンとイラクとの試合で交代選手としてわずかな時間プレーしたあと、大久保は水曜日に行われる、オマーンとのワールドカップ予選の代表メンバーには選ばれなかった。
 4日後、意外なことに大久保は、3月1日から5日までUAEでオリンピック最終予選の第1ラウンドを戦う、山本昌邦のU−23代表からも外された。
 昨年末、嘉人は注目の的であった。
 そして不意に、誰にも声をかけられなくなった。

 月曜日のオリンピック代表の記者会見で山本は、日本ラウンド(3月14日〜18日)では大久保を招集することを考えていると述べた。山本はさらに、大久保には休養が必要で、チームに招集した4人のストライカーの調子には満足している、と語った。
 それでも、私には、大久保の処遇は疑問である。
 大久保は、ジーコの代表チームに招集されていたため、イランとロシアを相手にしたオリンピック代表の2つの親善試合には出場できなかった。鹿島でのマレーシア戦では出場停止処分となっていたのに、である。
 次のイラク戦、イタリアから帰ってきた柳沢がいきなり先発で起用されたため、大久保はベンチであった。

 私はこれまでずっと、大久保―それから同じ理由で茂庭と石川―は、オリンピック代表に加わり、田中や新顔の平山と一緒に練習したり、山瀬、松井、前田といったアタッキング・ミッドフィールダーとの連携を磨いたりしたほうが良いと思っていた。
 今年の大久保は忙しくなりそうだというのは本当であるが、アテネへの出場権を獲得できなければ休養させた意味がなくなってしまう。
 そういう理由で、私には、大久保がUAE遠征メンバーから外されたのは驚きである。

 端的に言えば、大久保は試合を決める選手である。爆発力があり、ただ一途にゴールを狙う選手である。
 平山が参加した今でも、私は田中と大久保のコンビはダイナマイトのように危険であると考えている。2人のスピード、積極的なランニング、底知れぬスタミナは、相手ディフェンスを疲労困憊させることだろう
 今となっては、大久保の登場は日本ラウンドまで待たなければならない。
 その時には、再登場する大久保に過剰なプレッシャーがかからないようになっていることを望む。
 さらに言えば、大久保の再登場が遅すぎたというような状況になっていないことを本当に望む。

*このコラム(原文)は2月17日に書かれたものです

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日本のリゴベール・ソング、闘莉王

2004/02/16(月)

 結局ジーコがオリンピック代表から自身の代表チームに選んだのは、FC東京のディフェンダー茂庭照幸ただ一人であった。
 2月に行われた、A代表とオリンピック代表の合計4試合を見て、私には少なくとももう一人、どうしても23歳以下代表から選んで欲しい選手がいた。
 ただし、山本昌邦よりもジーコと練習していたほうが多かった、大久保嘉人や石川直宏のことを言っているのではない。
 私が言っているのは、23歳以下イラン代表戦とロシア代表戦の2試合で印象に残るプレーを見せた、ブラジルからの帰化選手、田中マルクス闘莉王である。
 闘莉王のエネルギーと気迫には本当に感心させられた。
 ロシアと1−1で引き分けた後に山本が言ったように、闘莉王はまだ完成した選手ではないが、プレーぶりは魅力に溢れている。

 現時点での私の結論では、闘莉王は、運動量豊富であきらめることを知らないカメルーンのキャプテン、リゴベール・ソングをブラジル/日本人にしたような選手である。
 闘莉王は粗削りで、時に荒っぽいプレーも見せるが、ただひたすら勝利を目指し、心でプレーする選手である。目の前の相手に全力を尽す闘莉王には、中途半端ということはありえない。100パーセントしかチームに貢献できないとしたら、それは調子の悪いときなのである!
 日本国籍を取得したのが昨年で、オリンピック代表では新入りであった闘莉王は、チームに入るなり積極的に発言した。そうするのが、日本では唯一有効なコミュニケーションの方法で、そうしなければ、日本では試合の際にも他の選手と大きな壁ができたままになってしまうのである。

 ロシア戦での高松のゴールは、闘莉王がすべてお膳立てしたものである。闘莉王は、自陣中央からブルドーザーのような勢いでロシア守備陣の中核を切り崩し、暴走トラックのようにゴールに突進した。まさに、フィリップ・トルシエが好みそうな、自発的プレーであった。
  試合後の正直なコメントも、私は好きだ。
「自分のプレーからゴールが生まれて良かったと思いますが、本当は自分でゴールを決めたかったですね」と闘莉王は言った。
 闘莉王が入ってからの2試合では、日本はそれぞれの試合で1点ずつゴールを許した。闘莉王の満足度はどうなのだろう?
「満足するのは、0点に抑えたときだけですね」と闘莉王は答えた。
 オリンピック代表の3バックでは、茂庭と闘莉王は先発メンバーとして決まりだと私は思っているので、山本は数ある候補者のなかからもう1人を選ばなければならない。私なら、左の茂庭、中央の闘莉王と並べて右側に徳永を起用する。そうすと、ちょっとのことではゴールを許さない、タフで激しい守備陣が完成する。
 闘莉王はオリンピック代表に新鮮な息吹を与えたが、必ずジーコの代表チームにも大きな影響を与えると思う、たとえしばらくは選ばれなくても。

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イルハン・ショー、東京で幕開け

2004/02/12(木)

 ショーのスターがアリーナに登場する準備が整ったときには、室内には期待と興奮が渦巻いていた。
 照明が落とされ、ドラムが轟くなか、「プリンス」が随員に守られながら登場した。
 ただし、プリンスはプリンスでも、ポップスターのプリンスではない。
 登場したのは、2002年ワールドカップでトルコ代表の一員として大活躍し、すさまじい数の日本人ファンから「プリンス」と呼ばれている、イルハン・マンスズであった。
 火曜日の午後、東京の高級ホテルで、プリンス・イルハン・マンスズが総勢200名(!)のマスコミにお披露目をしたのである。
 多くの人が、2002年当時の柔らかそうな長髪とはがらりと変わった短髪に驚いたが、白のTシャツの上に黄色のシャツと白のスーツを着たイルハンは、カメラの放列の前で輝いていた。

「明るい未来にしたいという希望を込めて、このスーツを選びました」とイルハン。
 髪形について。
「ファンの皆さんのほとんどが憶えているのは長髪の僕だと思いますが、今はこの髪形が気に入っています」
 デビッド・ベッカムについて。
「日本には、彼のファンがたくさんいるようですね。偉大な選手ですし、尊敬しています。彼のファンを横取りしようとは思いません。僕には僕のファンがいますからね。」
 微笑むたび、身振り手振りをするたびにカメラのシャッター音が立て続けに起り、19のテレビ局のスタッフがやたらと質問を浴びせかけた。

 豊富な資金力を誇る楽天の支援を受けるようになったヴィッセル神戸では、1万1000人弱だったホーム・スタジアムの平均入場者数を、今シーズンは2万人に増やしたいとしている。プリンス・イルハンは、躍進を目指す新生・神戸の象徴となる選手であり、彼自身と所属していたトルコのクラブであるベシクタシュには、相当な額の金銭が支払われた。

 どうかすると、とくに微笑んでいるときには、イルハンは、「愛と青春の旅立ち」のような映画に出ていた頃の若きリチャード・ギアを彷彿とさせた。
 ヴィッセルが獲得したのは、サッカー選手なのだろうか? それとも映画スターなのだろうか?
 もちろん、ヴィッセルとしては両方であって欲しいと思っているだろうし、ヴィッセルの幸運を願わずにはいられない。関西のサッカーには人気の起爆剤が必要であり、興味を喚起するために、ヴィッセルはプリンス・イルハンを獲得したのである。
 しかし、このストライカーに驚異的な活躍を望んではいけない。
 イルハンは28歳で、ワールドカップの英雄となったあとも、トルコに残っていた。ヨーロッパへのビッグクラブへの移籍はなかったし、チェルシーへの移籍もなかった。
 ワールドカップではトルコの7つの試合すべてに出場したが、最初の6試合は途中出場であり、フルタイム出場したのは3位決定戦の韓国戦だけであった。
 ゴール数は3。準々決勝のセネガル戦での決勝ゴールと、「死闘」となった韓国戦での2ゴールだ。

 イルハンは偉大な選手ではないが、ヴィッセル神戸にとっては偉大な存在である。
 今シーズンは、お近くのスタジアムでイルハン・ショーをお楽しみ下さい。

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エムボマを巡り不安を抱えるヴェルディ

2004/02/09(月)

東京ヴェルディ1969のオジー・アルディレス監督が、チームのスター、パトリック・エムボマに対して不安を抱くのは無理もない。
エムボマは昨シーズン終了後、軽い膝の故障を治すべく手術を受けることになっていた。
すなわち、3月のJリーグシーズン開幕に間に合わせるために、アフリカ選手権を欠場するはずであった。
しかし、カメルーン大統領がエムボマの“Indomitable Lions(不屈のライオン)”への参加を強く希望したため、手術を延期しチュニジアへ向かった。
グループCで、エムボマは対ジンバブエ戦のハットトリックを含む4得点を挙げ、カメルーンは現在準々決勝を争っており、ナイジェリアと戦うことになる。
そのため、アルディレス監督は複雑な心境にある。
エムボマが彼の母国のために得点を挙げることは、エムボマにとってもアルディレス監督にとっても嬉しいことだ。
しかし一方、アルディレス監督はエムボマの膝の故障が悪化してほしくはない。

「カメルーンが敗退すれば彼はすぐ手術する事になる。しかし本音を言わせてもらうと心配です」アルディレス監督は今週、読売ランドのヴェルディ本社でそう語った。
「彼がシーズン開幕を迎えられるかどうか微妙です。しかも彼は我々にとって重要なのです」
アフリカ選手権の決勝は2月14日である。そしてエムボマは手術後、回復するのに5〜6週間必要だと言っている。
ということは、もしライオンたちが決勝まで進むことになれば、エムボマが3月13日のシーズン開幕に間に合う可能性は低い。

ヴェルディとしてはエムボマが天皇杯直後に手術を受け、アフリカ選手権を欠場することを望んでいた。
しかし母国のためにプレーするということは、エムボマにとってあまりにも重大だった。 2001年のFIFAコンフェデレーションズカップで、同じくカメルーン代表として同じ新潟のホテルに宿泊した事によって選手間に特別な絆が生まれたようだ。彼らはまるで一つの大きな家族のようであり、だからこそ昨年フランスでのマルク・ビビアン・フォエの悲劇的な死は受け入れ難かったのではないか。

それはさておき、元ヴェルディのMFラモンがジェフ市原に入団するかもしれないと耳にした。イビチャ・オシム監督は中盤でボールをキープでき、攻撃の起点となれるベテランが必要だと言う。
元ヴェルディとマリノスのストライカー、マルキーニョスが、京都へレンタル移籍した崔龍洙に代わってジェフへ来るという話もある。
すべては1週間程度ではっきりするだろう。

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不可解だった、ジーコの新フォーメーション

2004/02/05(木)

 火曜日の午後から夕方にかけてカシマスタジアムで行われた日本代表の練習は、とても寒かったのはともかく、見ていてとても興味深いものであった。
 私は、ジーコが3−5−2のシステムを続けるだろうと確信していた。12月の東アジアサッカー選手権で日本代表がこのシステムを採用し、うまく機能していたからである。

 しかし、そうではなかった。監督はまた4バックに戻したのである。
 それだけではない。ジーコのフォーメーションは4−1−3−2になっており、山田(ヴェルディの山田ではなく、レッズのほう)、坪井、宮本、三都主、4人のディフェンダーの前にいる守備的ミッドフィールダーは遠藤1人だけであった。
 遠藤の前では、3人の攻撃的ミッドフィールダーがのべつまくなしにポジション・チェンジしながら、ピッチを縦横に駆け回っていた。この3人は、藤田と小笠原、本山であった。
 2人のストライカーは、先の東アジアサッカー選手権の韓国戦で退場処分を受けた大久保がマレーシア戦に出場できないため、久保と黒部のコンビであった。

 ジーコのフォーメーションは多くの人を驚かせたが、2月18日に埼玉で行われるワールドカップ予選のオマーン戦にヨーロッパ組が帰ってきたときのことを想定しているようにも見えた。
 オマーン戦までに、ジーコには、今回のマレーシア戦と2月12日(木曜日)のイラク戦という、2つの調整試合がある。
 日本の選手にもっとも適しており、チーム・バランスも良くなると私が思う、3−5−2 のシステムをジーコが放棄しようとしているのは明白である。
 マレーシアとイラクは、日本代表が楽勝しなければならない相手である。とりわけマレーシアにとっては、熱帯の自国とは違い、熱気も湿気もない世界が出現する、2月の夜の茨城海岸は厳しいものになるだろう。

 しかし、私には、日本がより強く、より野心に満ちたチームと対戦するときのことが心配でならない。山田と三都主は後ろに下っているより前に上がるのが持ち味であるのに、守備的ミッドフィールダー1人で大丈夫なのか?
 自由に動き回っても良い選手が3人いるようだが、それでは多すぎはしないだろうか?
 もちろん、ジーコが自身の選択を変更するのにまだ3日間あるわけだが、ともかく私は最初に述べたフォーメーションが好きではない。

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太陽(レイソル)の光を浴びて・・・

2004/02/02(月)

毎年この時期、Jリーグの各チームはメディアのために特別な日を設けている。
これらはいつもリラックスした、親しみやすいそしてポジティブな雰囲気の中で行われ、非常に楽しい行事である。
メディアは新入団選手や、監督、そしてチーム役員にシーズンの展望などを聞く機会を与えられる。

水曜日に上野から常磐線で柏へ行き、午後からのレイソルの記者発表会に参加したが、とても有益な体験であった。
発表会はイングランド下位リーグのスタジアムを思わせ、日本でもお気に入りのスタジアムの一つである日立柏サッカー場で行われた。
トッラクもないのでファンはピッチに近い。ホームチームのファンが一方に、そしてアウェーチームのファンはもう一方に、そして収容人員8000名と、実に良い雰囲気を出している。

水曜日にはもちろん、スタジアムに人の姿はなかった。
明るい冬の日差しに照らされ、新しいシーズンと新しいスタートがキラキラと輝いているようであった。

記者会見の始まる前、私は太陽の暖かい日差しを浴びながら、ピッチにしばらく座っていた。
無人のスタジアムを前に目を閉じ、グランドでサッカーが繰り広げられ、歓声に溢れたスタンドを想像するのは楽しい。
「ゴール!ゴール!柏ゴール!」
熱狂的な叫びとともに、レイソルのコーナーキック。そして対戦相手の選手達は“イエローモンキーズ”として知られる柏サポーターからの野次の集中砲火を浴びる。
日立柏サッカー場で、サポーター達がセーフティーネットを越えてピッチになだれ込まないように警備員達が常に目を光らせている光景は面白い。もちろんサポーター達もネットがあるからこそ熱狂できると私は思う。

ところで、2004年の干支は申である。これは柏を愛する人にとっては吉兆であるのかもしれない。
今シーズンもまたチームは大きな戦力補強をした。その中でも私は若いブラジル人MFドゥドゥを非常に楽しみにしている。
ロンドンのワールドサッカーマガジン今月号では、このビットーリア出身、20歳の彼をかつてのジーコ監督のチームメートであったソクラテスと既に比較していた。
ドゥドゥが柏に来るまでまだ1週間以上あるが、彼はすでに記者発表での一番の論点であった。

2004年はドゥドゥの年であるのかもしれない。

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