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2004年1月

女子サッカーもお忘れなく

2004/01/29(木)

 あらゆる年代の日本代表チームの動向が気になってしまいそうな今年、女子の代表チームも見逃すわけにはいかない。
 日本サッカー協会(JFA)もこのことはよく認識しているようで、火曜日には、女子サッカーのアテネ・オリンピック・アジア予選の組み合わせ抽選会が盛大に催された。
 アジアサッカー連盟の事務総長であるピーター・ベラパン氏が中心になって進行された抽選では、フットサル好きの、4人の若く美しい女性タレントがアシスタントを務めた。
 私のサッカー観戦歴を通じて、この4人が最高の「黄金の4人」であり、ジーコ・ジャパンの中田−小野−稲本−中村の組み合わせよりはるかに魅力的であった!

 クジの結果を見ると、日本はベトナム、タイと同じ組で準決勝進出は問題なく、その時の相手は北朝鮮になりそうだ。
 北朝鮮チームは、「鉄のバラ」こと中国チームに代わってアジア最強の座につこうとしているチームであり、上位2チームに与えられる、アテネ大会のアジア出場枠を獲得するためには、日本チームは4月24日に東京で行われる準決勝ではかなりのがんばりが必要になるだろう。
 JFAの川淵三郎キャプテンが司会を務めた抽選会では、あらゆる発言者が女子サッカーの人気が上昇していることに言及した。
 そして、賞賛を浴びるのにはそれなりの理由もあった。

 1995年にコタキナバル(マレーシア)で開催されたアジア選手権を実際に観戦して以来、私はずっと女子サッカーのファンである。
 女子サッカーにはいくつも良い点があるが、とりわけプレー中の気迫が好きだ。
 男性のプロフェッショナルの最高レベルの試合と違い、ダイビングもないし、欺瞞的なプレーもないし、負傷を装うこともないし、レフリーを欺こうともしない。
 私にとっては、サッカーのきわめて純粋なかたちであり、女子サッカーは上記のような好ましくない振る舞いにまったく毒されていないのである。
 また、女性のほうが男性に比べて身体的なパワーに欠けている分、個人の力量やテクニック、動きがより重要視される傾向がある。
 とはいえ、パワフルなプレーがあまりないというわけでもなく、火曜日のオリンピック予選抽選会に出席していたゲストは、2003年の女子サッカーアジア選手権のハイライト映像を見て、一様に衝撃を受けたようであった。

 アテネオリンピックの予選は、4月18日から26日まで開催される。
 グループAには北朝鮮、台湾、シンガポール、香港が、グループBには中国、ミャンマー、韓国、グァムが入っており、この両グループの試合は4月18日、20日、22日に広島で行われる。
 グループCの試合は東京で行われ、日本は4月18日にベトナム、22日にタイと対戦し、タイとベトナムの試合は4月20日に行われる。 準決勝は4月24日で、順当に進めば日本は東京で北朝鮮と対戦することになる。また、3位決定戦と決勝は4月26日に広島で行われる。
 今年が日本のサッカーファンにとっては慌ただしくて、重要な1年であるのはわかるが、女子サッカーの大会にも足を運び、女子サッカー大会の面白さをぜひ実感していただきたい。
 トップチームの技術と戦術のレベルの高さに、ビックリすること請け合いである。

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慌しいシーズンに向けて早いスタートを切るマリノス

2004/01/26(月)

*このコラム(原文)は1月24日に書かれたもので、その後、アジアサッカー連盟は正式にペルシクケディリ対マリノスの試合を2月24日から2月15日へ変更することを拒否しました。その点をご考慮のうえ、お楽しみください。

3月13日のJリーグ開幕の約7週間前にあたる今週水曜日、横浜F・マリノスの選手達がトレーニングキャンプに戻ってきたのは無理も無い。
2月そして3月と、Jリーグチャンピオンのマリノスは少なくとも5つのコンペティションを戦うのだ。
そう、5つだ。

最初の大会はベトナムとインドネシアで行われる「AFCチャンピオンズ・リーグ」グループGの試合である。
そして、次に日本、韓国そして中国のチャンピオンと開催国の2位チームの合計4チームが参加する上海での「A3 NISSAN チャンピオンズカップ」がある。
さらに、マリノスは3月6日、シーズン開幕1週間前に天皇杯優勝チームのジュビロ磐田と「ゼロックススーパーカップ」を東京で戦う。
3月の最終土曜日の27日にはナビスコカップが始まる。

「今シーズン、もし我々が出場する全ての大会で決勝まで勝ち進んだとしたら、実に62試合も戦うことになります」
今週チームの戸塚トレーニングセンターでGKコーチ、ディド・ハーフナーはそう語った。「国際試合をあわせると、選手によっては年間で80試合も出場する事だってあり得るのです」
「だからこそ我々は4人のゴールキーパー、そして2つのチームが必要になるのです」

岡田武史監督は戻って来た選手達に、昨年より4点多い勝ち点62と、やはりこれも昨シーズンより4ゴール多い60ゴールを期待すると伝えた。
岡田監督は、リーグ連覇をするには得失点差30(昨年は得点56、失点33で得失点差23)が必要になると言う。
岡田監督の二大目標は、Jリーグ優勝とヨーロッパのUEFAチャンピオンリーグや南米のリベルタドーレス杯にあたるAFCチャンピオンズリーグの制覇である。
AFCチャンピオンズリーグと上海でのA3 NISSAN チャンピオンズカップの日程が重なる事は避けられたのでマリノスは両大会にベストメンバーで臨むことができる。
日程が重なった際、A3 NISSAN チャンピオンズカップよりも2005年からFIFAが復活させる予定の世界クラブ選手権の出場権を得られるAFCチャンピオンズリーグに重点を置くとした岡田監督の判断は正しい。

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Jリーグの価値ある進歩

2004/01/22(木)

 2004年は、2シーズン制が今シーズン限りでとりやめになるという、Jリーグにとって画期的なニュースで幕を開けた。
 つまり、Jリーグも世界のサッカー界に足並みをそろえ、2005年からは1シーズン制で行われるようになるのである。
 Jリーグの鈴木昌チェアマンは、火曜日の理事会で1シーズン制への移行を確認し、さらに2005年にはJ1のチーム数を16から18に増やすと語った。
 1シーズン制も、J1のチーム数増加も、ともに日本のサッカーにとって好ましいものであるが、特に2シーズン制の廃止決定は歓迎したい。

 過去に2〜3度はエキサイティングな結末が見られた年もあったが、私はもともと2シーズン制の支持者ではなかった。
 リーグ・チャンピオンとはシーズンを通じての総合力を問うものであると私は考えている。
 リーグ・チャンピオンはプレーオフで決めるべきものでないし、ましてや1999年にジュビロ磐田が清水エスパルスを破った時のように、PK戦で決めるべきものでもない。
 延長戦やゴールデンゴール、PK戦が適用されるのは、ノックアウト・システムで優勝者を決める、カップ戦だけに限定すべきである。

 ゆっくりではあるが、確実に、Jリーグの認識もそのような方向に向かっているようだ。
 最初にPK戦が廃止された。それから、ゴールデンゴールと延長戦が廃止され、今度は2シーズン制がとりやめになった。
 したがって、私は今回のJリーグの改正案を全面的に支持したいし、ファンもプレーオフなしのリーグ戦を継続的に支持してくれるはずだと考えている。

 過去2年は、結果的にプレーオフが必要なくなった。2年前はジュビロ磐田が、昨年は横浜F・マリノスが両ステージ制覇を達成したからだが、Jリーグは、プレーオフのスポンサー料やテレビの放映権料、入場料収入などで見込まれていた約1億2,000万円の収益を失ったことになる。
 チーム数を2つ増やすという決定に関して述べると、今回の決定によって、2005年の日本のチャンピオンチームは、これまでの30試合(各ステージ15試合ずつ)ではなく、34試合を戦って決められることになる。
 そのため、各チームのホームゲームの数も15試合から17試合に増えるので、収益の増加も期待される。
 J2参入に興味を示しているチームもいくつかあるので、2005年にはJ1が18チーム、J2が12チームという体制も可能かもしれない。
 2シーズン制からの移行が実現した将来の見通しは、これまでよりもずっとエキサイティングである。

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中国での試練に直面する日本代表

2004/01/19(月)

間違いがあってはいけない。今夏中国で行われるアジアカップで、日本代表には手を抜くような余裕は許されない。
1月15日に16ヶ国による組み合わせ抽選が行われた、ジーコ監督率いるグループDの日本代表は重慶でオマーン、タイ、そしてイランと対戦する。
各グループは4チームで編成され、4つのグループからそれぞれ上位2ヶ国が準々決勝に進出する。
日本代表の初戦は7月20日の対オマーン戦で、4日後にタイ、そして28日にイランと対戦する。

もちろんその頃には、2月18日に埼玉で行われる対オマーンの2006年ワールドカップ予選も終わっている。ユースでは好印象を受けるが、世界レベルでの経験の浅いオマーンにとって日本は強すぎるはずだ。
タイはスピードもあり技術もある。アジアのどのチームをも苦しめる力を持っている。韓国で行われた2002年アジア大会では、決勝でイランに敗れた日本代表に大敗を喫した。

日本対イランと言えば、もちろん1998年フランスワールドカップのアジア予選の対戦を思い出す。
試合は1997年11月に中立会場であるマレーシアのジョホールバルで行われ、サドンデス延長戦の末に岡野 雅行のゴールで日本代表が3−2で勝利を収めた。
そのゴールは日本サッカー史上最も重要なゴールであると私は思う。
もしイランがその試合に勝利し、日本がオーストラリアとのアジア・オセアニアプレーオフに敗れていたとしたら、現在の日本サッカー界はどうなっていただろう。
ワールドカップ予選敗退の後遺症が2002年ワールドカップの誘致やJリーグ人気に多大な影響を与えなかったとは言い切れない。“野人”岡野のゴールはそれほど大きかったのだ。

日本代表は7月のこのグループでの対戦を楽観視する余裕はない。
もちろん日本代表はグループで上位2位に食い込む力と経験を備えている。しかしアジアの強豪としての地位は常に下位から狙われているという事だ。
日本代表はグループリーグを勝ち抜くだろう。しかし簡単に勝たせてくれると思ってはいけない。

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2004年への意気込みが感じられる、グランパスとパープルサンガの補強

2004/01/15(木)

 2004年の注目の一戦は、京都パープルサンガ対名古屋グランパスエイト戦だろう。
 この試合は、まさにJ2最高のアタッカー陣とJ1屈指のディフェンス陣の戦いになるに違いない。
 もちろん、両者の対戦は、来シーズンの掉尾にある天皇杯でしか実現の可能性はない。
 しかし、冬の期間中の両クラブの戦力補強活動は、2004年への意気込みを感じさせるものである。

 パープルサンガはジェフ市原から韓国のゴールマシーン、崔龍洙(チェ・ヨンス)を獲得したのに続き、黒部と松井をともに残留させることにも成功した。
 崔と黒部の空中戦の強さに松井の柔軟なテクニックが組み合わされたアタック陣は、J2ではまさに脅威となるだろう。
 パープルサンガにとっては、J1復帰への直行便—それも陸路ではなく、空路の―を予約したようなものである。
 たとえ相手チームがパープルサンガのアタック陣に対策を立てたとしても、実際にこのアタック陣を止めることができるかどうかはわからない。

 グランパスの場合は、鹿島からベテランの秋田を獲得したのに続き、パープルサンガの若きディフェンダー、角田の獲得に成功した。
 11年もの間、茨城で実績を積み上げてきた末に鹿島から解雇されたにも関わらず、秋田はこの冬の補強の目玉である。
 秋田がいるだけでチームの他のメンバーへの刺激になるだろうし、その決してあきらめない姿勢によって、高い給料をもらってはいるものの、チームとしてはまだ発展途上にある名古屋の選手たちを少年から真の男へと変化させることにもなるだろう。
 秋田の獲得によって、名古屋は長い間求めてきたもの、つまり決して妥協しようとしない、厳しく、タフな日本人のリーダーを手にしたのである。

 パープルサンガも、1シーズンでのJ1復帰を目指して、大規模な投資を行ってきたのは明らかだ。
 もっとも、1年前、天皇杯に優勝したあとに、なぜ同じような投資をしなかったのかと不思議に思う方もいるかもしれない。
 その時には、体調が万全ではない高宗秀(コ・ジョンス)を獲得するという、途方もなく大きく、高くつく失敗をしていたのである。
 当時の監督、ゲルト・エンゲルスは高の獲得には当初より反対だったので、「新戦力は試合前に見るDVDプレーヤーだけ!」とこぼしていたものだ。

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ヨーロッパに賭ける川口

2004/01/12(月)

川口能活の努力と決意を誰も責めることはできない。
来週、彼は所属するデンマークのノアシェランの正GKになるという目標を胸に、日本を出発しヨーロッパに戻る。ヨシは自分の所属するチームでレギュラーとしてプレーしない限り、2006年ドイツワールドカップ予選で日本代表としてプレーできない事がよくわかっている。彼は、この目標に向けてこれまで以上にトレーニングを重ねることだろう。

2001年10月、横浜F・マリノスからイングランドのポーツマスに移籍して以来、彼は問題を抱えている。
それにも関わらず、彼は楽観的で、陽気で、そしてとても気持ちの良い若者である。
1月4日に東京で行われた井原正巳の引退試合の後に、彼と話すことが出来たのは良かった。
デンマーク語は難しいようだが彼の英語は今やかなり上達している。

「話す事、そして書く事は覚えつつありますが、ヒアリングはかなり難しいです」
彼は言う。(もちろんデンマーク語でなく英語で話している。)
「幸い、デンマークの人々は完璧な英語をしゃべりますし、とにかく彼らは親切です。ただ寒いだけですよ」

とにかく寒い。事実、デンマークリーグは春から初冬にかけて開催され、12月から3月まではオフである。

「デンマークに戻ったら、2ヶ月の準備期間があります」
彼は言った。
「練習試合と親善試合がたくさんあります。シーズンが始まる頃にはチームに定着できればと思っています」

20033年9月にポーツマスからノアシェランに移籍して以来、わずか4試合しかトップチームでプレーしていないとヨシは説明した。
そして足首の怪我で1ヶ月以上、試合にして7〜8試合の欠場を余儀なくされた。
「ドクターは手術が必要になる確率は5%で、95%は必要がないと言いました。僕は手術しない事に同意しました。休養をとったので足首はもう大丈夫です」

ジーコ監督に代表として選ばれた2試合、対ウルグアイ戦、そして対ルーマニア戦でのミスが、彼のトップチームでの出場経験不足に起因している事は明白であった。
ヨシにとって、Jリーグに復帰することは当然のごとく可能だ。しかし彼はヨーロッパに残って結果を出したいのだ。
彼はまだ28歳である。この年齢はキーパーとしてはまだ若い。そして何より、彼はまだ成長したいという意欲がある。
彼のような愛すべき人間には、今後の幸運を祈らずにはいられない。

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もう1つのスーパー・サッカーショーとなった、井原の引退試合

2004/01/08(木)

 2002年、世界は、日本にもスーパー・サッカーショーを開催する能力があることに気付いた。FIFAワールドカップという名のスーパー・サッカーショーだ。
 日本に住むサッカーファンである我々には、そんなことは当然であった。代表チームの試合も、Jリーグの熱戦も、トヨタカップのような一発勝負の試合も、常にワクワクするような舞台を提供してくれているからだ。

 土曜日、東京の国立競技場では、日本のサッカー界が1つにまとまり、日本サッカー界でも屈指の実力を誇り、日本サッカー界に多大な貢献をしてきた、井原正巳の栄誉を讚えた。
 過去、そして現在の代表チームのスターや、韓国の大物コンビである柳想鉄(ユ・サンチョル)と洪明甫(ホン・ミョンボ)など、40人以上の選手が1998年ワールドカップ日本代表キャプテンの引退試合に参加した。
 井原が引退したのは1年前であったが、3万1000人の観客がスタジアムに詰めかけ、井原への感謝を示した。
 試合には、木村(文治ではなく、和司のほう!)やラモス瑠偉といったかつての達人たちも参加して、昔を思い出させてくれただけでなく、国立競技場という舞台であらためて健在ぶりをアピールしてくれていた。
 また、才能に恵まれていたものの道に迷ってしまい、苦労を重ねてきた前園のプレーぶりも見ることができた。
 ただし、もっとも感動的であったのは、試合終了のホイッスルが吹かれたあとであった。

 その時の音楽は感涙させることを目的にしていたようであったが、井原は涙を見せることなく、いつもと同じようにプロフェッショナルであり続けた。
 意味深げに銀のシューズを脱ぎ、キャプテンの腕章を取り外したあと(シニカルな見方をして申し訳ないのだが、この部分はナイキのプロモーションのように感じてしまった)、井原はお立ち台の上で引退のスピーチを行い、ゴンから花束を受けとると、トラックを2周して声援に応えた。
 1周目は自分の足でトラックを回り、2周目はピッチを整備する車に乗っていたが、たくさんの風船のため良くは見えなかった。ひょっとすると、井原が乗っていたのはメルセデス・ベンツだったのかもしれない。
 仲間の選手からの握手とねぎらいは心からのものであった。代表で123試合、Jリーグで297試合の出場記録を持つ井原は、日本のサッカー史に永遠に残る名選手なのである。

「彼は、日本で最初のプロ選手に数えられるだろうね」とハンス・オフトは言う。
「サッカーで給料をもらっていたからではなく、一貫した姿勢と行動によってね。今から10年後に振り返れば、彼の偉大な功績がわかるだろう。キャプテンとして、井原は優れた資質を発揮していた。話し上手というわけではなかったが、存在そのものが人々を鼓舞していた。それが、人間性というものだ」
 その日の午後も、彼の人間性が発揮されていた。

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好調のままシーズンを終えたグラウ

2004/01/05(月)

正月に東京・国立競技場で行われた天皇杯決勝、ロゴリゴ・グラウには決勝ゴールを決める資格が十分にあった。
このブラジル人フォワードにとって、終わったばかりの昨シーズンは大いなる成功の年だった。
2002年のグラウは、両ステージ完全制覇の原動力となった中山―高原のコンビの影で出場機会に恵まれなかった。
事実、2003年にいたるまでの彼の成績は、9試合出場でわずか1得点であった。
しかし2003年には、レギューラーシーズンでは8本中8得点のPKを含む21得点、ナビスコカップで5得点、そして天皇杯ではセレッソ大阪戦での決勝ゴールを含む6得点を挙げた。
すなわち国内の3大会での総計32得点と、素晴らしい結果であった。

2003年のシーズン中、私はジュビロのオランダ人ゴールキーパー、アルノ・ヴァンズワムとグラウの資質について何度か長いやり取りをしたことがあった。
アルノはグラウについて、彼は基本的にゴールに近いところで力を発揮するペナルティーエリア内のゴールゲッターであると言った。
彼のゴールは華々しいものではない。しかしグラウにはルーズボールをネットに叩き込むための天性の才能が備わっているとアルノは言った。

これは疑うべくもなく事実である。ただ、グラウのプレーはアルノがチームを離れオランダに帰った後、更に成長したようである。
天皇杯準決勝の対エスパルス戦では彼は前田のおかげもあって1得点を挙げたが、ジュビロの他の3得点にも絡んでいた。
彼から西へのパス、西のクロス、そして成岡のヘディングシュートと、この一連のプレーは素晴らしいものであった。

決勝戦では、日本のストライカー達にフィニッシュの良い手本を示した。前田からの正確なパスを受けた後、グラウは厳しい状況のなか抜群のコントロールと冷静さで柳本をペナルティーエリアで抜き、キーパーをかわしてコーナーにボールを滑り込ませた。
それは後半にセレッソが崩壊しジュビロが支配した、荒れた試合を決めるに値する、まさに美しいゴールであった。
そうしてジュビロとグラウは勝者となり、高原は今や遠い昔の記憶となった。

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