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2003年4月

関西の憂鬱

2003/04/27(日)

 2003年、Jリーグのシーズンが始まってまだ日は浅い。しかし、関西での盛り上がり不足に対するリーグ首脳の心配は大きいはずだ。
 いや、正確にはイベント不足と言うべきだろうか。
 Jリーグチェアマン、鈴木昌氏は、ガンバ大阪、昇格を果たしたセレッソ大阪、天皇杯の覇者・京都パープルサンガ、そしてヴィッセル神戸といった4チームの活躍が今年こそ関西に過去最高の盛り上がりをもたらし、また今年がこれらのチームにとって躍進の年になる事を期待していた。
 しかしこれまでのところ、ファンはすでに審判を下し、大きな失望に変わりつつある。

 それは先週土曜日のゲームを見ても明らかだ。
 神戸ウイングスタジアムで行われたヴィッセル神戸のホームゲーム、対ベガルタ仙台戦ではわずか6325人しか集客できなかった。
 前週末の市原での3−0勝利の後、仙台に勝てば少なくとも翌日の横浜マリノス対大分トリニータの試合までは勝点9でトップに躍り出る事を考えれば、この数字はヴィッセルにとっては最悪の数字であろう。
 結局ヴィッセルは1−2で負けたのだが、この結果はファン離れを増幅させかねない。

 一方、吹田は更に悪い状況だった。万博スタジアムで行われたガンバ大阪対ジェフ市原の観客数は4828人だった。
 両チームとも魅力のあるチームであり、3−3の引き分けという試合結果がそれを物語っている。
 とは言え、ガンバファンの求めているものは手に汗を握るような面白さではなく、勝利であり、勝点であり、優勝杯なのだ。
 ガンバはシーズン開幕前の私の優勝候補の一つであり、今でも彼らにその力は十分あると思っている。
 今日現在(4月23日)で勝点5、トップのマリノスとは5点差である。しかしファーストステージはまだ11試合残っているのだ。
 1−0で勝てば心理的効果は絶大だっただろうに、ジュビロ戦は1−1の引き分けに終わり、彼ら自身をも落胆させた。
 さらには、大分に2−3で敗れ、トリニータにJ1での初勝利を献上した。

 得点力はあるが、勝ち星を計算できないセレッソ大阪、そして昨シーズンと打って変わって低迷しているパープルサンガ、すでに関西にとって寂しいシーズンになりそうな感がある。
 関西には鼓舞してくれる何かが必要だ。
 また、Jリーグのためにはその何かが今すぐにでも来てくれる事を祈らずにはいられない。

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オール・ホワイツに気をつけろ!

2003/04/24(木)

 スポーツ好きならだれでも、ニュージーランド・ラグビー・ユニオンの代表チーム、オール・ブラックスのことは知っているだろう。
 では、オール・ホワイツはどうだろうか?
 答えは、ニュージーランドのサッカー代表チーム。6月18日、パリ・サンドニで日本代表がFIFAコンフェデレーションズカップの緒戦を戦う相手だ。
 日本の選手やコーチが簡単なチームだと見くびっていると大変な目に遭う―、と語るのは、浦和レッズのオーストラリア人ディフェンダー、ネディエリコ・ゼリッチ。
 オーストラリアとニュージーランドはFIFAのオセアニア連盟の二大強豪で、ゼリッチはオール・ホワイツのことを熟知している。
 ニュージーランドは日本にとって手ごわい相手になりえる。ゼリッチはそう確信しているようだ。

 実際のところ、FIFAがオセアニア連盟に2006年ワールドカップの出場枠を1つ与えたことにより、オセアニア地域のレベルは向上の一途を辿っている、というのがゼリッチの意見である。
「今回、ワールドカップ出場のチャンスが与えられたことで、オセアニア地域のチームは本当にレベルが上がっていると思うよ」とゼリッチ。オーストラリア、ドイツ、イングランド、フランスでプレーした後、昨年日本にやって来て、最初は京都パープルサンガに入団した選手である。
「フィジーやパプア・ニューギニアといったチームも強くなるだろうね。
「ニュージーランドについて言えば、昔から簡単な相手ではなかったよ。オーストラリアはニュージーランドにはだいたい勝ってきたけど、今はどんどん強くなっているところだ」
「次のワールドカップの出場枠が一つ空いているということで、選手のモチベーションも上がっているからね」

 先週の土曜日、プレーするゼリッチを見ることができて良かった。その日の試合は、エメルソンと鈴木啓太がともに見事なゴールを決め、駒場で浦和が京都を2−0で破った。
 自慢するわけではないが、私は、ゼリッチが京都パープルサンガのメンバーとしてプレーした唯一の試合、ジェフユナイテッド市原に敗れた試合を見た、数少ない人間の一人なのである!
 その唯一の試合に出たあと、ゼリッチは個人的な理由でクラブを去り、シーズン後半には浦和でプレーするために日本に戻ってきた。
 しかし、昨シーズンはケガが重なり、浦和での出場は1試合のみ。冬のオーストラリア・キャンプでもハムストリングを断裂し、シーズンの冒頭は欠場を余儀なくされた。
 ゼリッチは、スキルの高さとエレガントさを持ち合わせた良い選手で、その安定性、冷静さ、経験を発揮すれば、レッズのようなチームでは大きな戦力になりえる選手である。
 彼は、チームメートである永井雄一郎の大ファンで、永井が代表デビューの韓国戦でゴールを決めたことを、ことのほか喜んでいた。
「僕に言わせれば、永井は代表レベルの選手だよ。世界レベルで必要な技術は全て持っているし、一人や二人なら自由自在に抜くことができるからね。こんなに才能のあるやつは、絶対に代表チームでプレーすべきだよ」というのが、このオーストラリア人の弁である。

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「ゴンは特別」ジーコが語る

2003/04/20(日)

 ゴン中山ももう若くはない。しかし一体彼に引退の日は来るのだろうかとさえ思う。今年や来年では決してないだろう。彼はまだまだルーキーのような、いやそれ以上の情熱とゴールへの執念を持ち続けている。
 彼は現在35歳である。そして先週、日本代表として51試合目の出場を果たした。それは丁度彼がキャプテンとして出場したソウルでの対韓国戦0−1の敗戦以来3年ぶりの先発出場であった。

 ジーコ監督が彼をキャプテンに指名したのは驚きであった。ポジション的に見ても秋田豊を指名する方がより論理的に思われ、さらに今回の韓国対日本戦はおそらく中山のいるサイドとは反対のサイド上で展開されるだろうと予想されたからだ。
 しかしゴンは彼の務めを十二分に果たした。
 試合開始早々から、センターバック曹秉局(チョビョングク)のフェアだが厳しいチェックに苦しめられ、韓国ベンチ前で倒された時には韓国サポーターの歓声もひときわ高まった。
 しかしすぐに立ち上がり、その後も日本のカウンター攻撃の先鋒であり続けた。後半開始早々も韓国の激しいディフェンスの中、こぼれ球にヘッドを合わせ、ファーポスト外にはずしたとは言えガッツを見せた。
 また、その数分後には右サイドバックの名良橋の素晴らしい動きによって得た決定的チャンスにバーを大きく外して潰してしまったが強烈なシュートを放った。

 ジーコ監督は他の選手達の良い手本だと、ゴンの経験とリーダーシップを褒めちぎった。
 「他の選手達が仕事は終わったと思っていても、ゴンはいつももっとやろうとしているんだ」とジーコ監督は金曜日に外国人記者クラブでのゲストスピーカーとして招かれた際にそう語った。
 「だからこそ彼の年齢をして、未だに中心選手としてプレーできるんだ」
 ジーコ監督は、監督をしている者なら誰もが自分のチームに中山のような選手を欲しがり、そしてたとえ彼が現役の引退を決意したとしても日本サッカー界から消え去ることはないと確信している。
 「たとえ彼が引退したとしても、彼は日本のサッカー界にとって必要な人材になるよ」ジーコ監督は言う。

 言葉にはしなかったが、ジーコ監督は他の若い選手達が中山のせめて半分でもピッチの内外を問わず、サッカーに対する願望や責任、そして自信を見せてくれる事を願っていたに違いない。

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老ボランティアが語る日韓の未来

2003/04/17(木)

 道に迷ったとき、思わぬ人に出会うことがある。
 私は月曜の朝に成田国際空港を飛び立ち、2時前にソウル・インチョン空港に到着した。
 空港からソウル・ワールドカップスタジアムまではリムジンバスがあり、1時間の移動の運賃はたった6,000ウォン(約600円)だった!
 とはいえ、インフォメーション・デスクではバスはスタジアムに直行すると言っていたのに、降ろされたのは銀色のスタジアムの輝きが視界の遥かかなたに見える地点。それはまるで新横浜駅で電車を降り、遠くの横浜国際競技場を眺めているようなものであった。
 天気は素晴らしく良かったが、コンピュータと旅行カバンは重く、持ち歩くのは厄介であった。おまけに新しい靴を履いていたおかげで踵が靴ズレしており、スタジアムへの道のりは楽しいものではなかった。

 最初に私は練習場であるサブグラウンドを探さなければならなかった。日本代表が4時から練習を予定していたからだ。
 私は地図を見て、目指す方向に歩き始めた。
 サブグラウンドにもスタンドがあると思っていた私は、何の標示も付いていない入口を通り過ぎてしまい、途方に暮れた気分でソウル・ワールドカップスタジアムに辿り着いた。
 私は見るからにカッカしていたようで、とても親切そうな韓国人の紳士が完ぺきな英語で私に話しかけてきた。「お困りですか?」
 はい、お困りです!
 紳士の案内で、来た道を引き返した。サブグラウンドの入口もわかった。ただし、サブグラウンドの手前には、だだっ広い駐車場エリアがあり、スケートボーダーたちが春の陽射しのなか集まっていた。

 紳士の名前は、ミスター・ホー・ピル。韓国式の年齢では70歳であったが、生まれたのは1934年。ボランティアのガイドをしていて、海外からやって来たサッカーファンにスタジアムの案内をしているという。訪問客のほとんどは中国や香港からやって来ると聞いて、SARSウイルスを連想した私はマスクをつけ、彼からさっと離れた(ふざけただけですよ!)。
「ホーのあとにコンマを打ったほうがよろしいでしょうね」私がノートブックに氏の名前を書きつけると、こうおっしゃる。「ホーは名字ですから」
 彼の言葉に従い、私は”Ho, Pil”と書いた。
 水曜日の試合のことを訊ねてみると、彼は2002年のワールドカップでベスト4入りした韓国が勝つと予想した。

 約65,000人収容のスタジアムの切符は5時間で完売。水曜日の夜は、約4,000人の勇敢な日本人がジャパン・ブルーのシャツに身を包んでやって来るというが、スタジアムの残りは韓国の赤に包まれる。
「韓国のファンは日本のチームとサポーターにどのように応対するのでしょうね?」私は好奇心でそう質問した。両国の激しいライバル関係から、イングランド代表がグラスゴーでスコットランド代表と対戦する時のことを思い出したからだ。そのような時、グラスゴーはイングランド人にとって愉快な場所にはならない。
 「人々の感じ方も変りつつあるのではないでしょうか」とピル・ホー氏。
 「これまで両国の関係は良くありませんでしたが、我々は心を新たにして、将来について考えなければなりません。
 「過去にすがっていてはいけないのです。ワールドカップはとても役に立ちました。両国の関係はこれまで以上に親密になっています」
 このようなコメントを聞くことができて良かった。
 たとえ踵の血が靴下にしみ込んでいても、仕事中にSARSに感染する恐れがあるとしても・・・。

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久保のプレースタイルが変わった?!

2003/04/13(日)

 英語のことわざに「豹はその紋様を変えない」というものがある。
 ※日本語では「三つ子の魂百まで」
 日本語に同じことわざがあるのかどうかは分からないが、その意味は、人のもって生まれた性格は変わる事がないというものだ。
 ただ久保に関して言うと、まるで彼の性格は変わってしまったようだ。
 これは私が今シーズンのJリーグ開幕から彼を見てきて思ったことだ。
 久保という選手は私にとって、背が高く力強いセンターフォーワードで、恐れを知らず攻撃的で、考えている事といえば強烈な左足のシュートと高いヘディングでゴールネットを揺らす事だけというものであった。
 また、横浜F・マリノスがサンフレッチェ広島から彼を獲得したのは、まさにチームがそれを起爆剤にしたかったからに違いない。
 しかし、今シーズンの久保は私の見る限り違って見える。
 今までならシュートを打っていた場面でパスをする。ゴールエリア内、ヘッドでゴールを狙っていた場面で、今はボールを戻してしまう。

 先週土曜日の対ベガルタ仙台戦の後、会見場からロッカールームへ戻る岡田武史監督と数分間話した。
 その時私は岡田監督に、久保に個人プレーからチームプレーに徹するようスタイルを変えるよう命じたのか聞いた。
 岡田監督はそう命じた覚えはないと答えた。しかし、選手は11人全てが、チームに対して等しく責任を負わなければならないと付け加えた。
 そして私は岡田監督に、開幕戦の対ジュビロ磐田戦で久保が左サイドを突破し、中央の佐藤由紀彦にパスし佐藤が得点した場面に驚かなかったかとたずねた。私が期待していたのは、彼の豪快な左足のシュートでゴールキーパーごとボールをゴールに押し込む場面だった。
 岡田監督は彼自身も久保がシュートを打たなかった事については非常に驚いたと認めたが、同時に横浜の得点という結果には非常に喜んでいた。

 先週土曜日には、クロスが仙台のゴールエリアへ上がった時に、ファーポストにいた久保はやはり自身でゴールを狙わずマルキーニョスへパスしようとしていた。
 仮に久保がスタイルを変えようとしているのだとしたら、私は以前の彼の方が好きだ。
 色々な意味で、彼は箱詰めのチョコレートのようだった。次は何味にあたるのかわからない。
 彼は荒削りで意外性のあるプレーヤーだった。以前のコラムにも書いたが、それこそ彼自身が次に何をするのかわからない、そして久保自身がわからなければディフェンス陣はなおさらである。
 きっと今シーズン、一度でもゴールすれば久保は自分でゴールを狙う自信を取り戻すに違いない。
 いや、是非そうなって欲しい。もし久保が単なるチームプレーヤーになってしまうと、彼の特別な才能が失せてしまう。

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山瀬はレッズ・ファンの元気の素

2003/04/10(木)

 浦和では、交代選手にいちばん大きな声援が送られるのは、不穏な空気が立ちこめる前兆であると言える。
 しかし、レッズがホームで名古屋グランパスエイトと戦った、日曜日の駒場スタジアムは様子が違っていた。
 試合の大半はアウェーのグランパスが支配していたが、攻撃的ミッドフィルダーである長谷部誠に代わって山瀬功治がピッチに登場してからの17分間、レッズ・ファンが一気に元気になったように見えた。

 山瀬のJリーグ登場は、実に8月17日以来のことであった。その日、山瀬はコンサドーレ札幌の選手として、ホームで行われた2002年のファースト・ステージ最終戦、東京ヴェルディ戦に出場し、ヒザに重傷を負ったのである。
 このようなケガにも関わらず、浦和は冬に山瀬の移籍交渉を進め、山瀬も順調に回復しつつあるようだ。
 これは浦和にとっても、日本代表にとっても良いニュースだろう。21歳の山瀬は疑いようもないくらい聡明で、創造性に溢れた選手であるからだ。このまま成長を続ければ、オリンピック代表入りもありえるかもしれない。
 外国人選手に関して不透明な状況が続くレッズにあって、何より必要なのは、安定した戦力を持つことであり、才能を持った日本人選手の登場である。
 この点に関しては、リーグ戦では10月19日以来勝ち星に恵まれていないとはいえ、状況は好転しているようである。
 バックラインには、坪井慶介がいる。坪井は、日曜日の試合では危険なブラジル人ストライカー、ウェズレイに手を焼きながらもしっかりと対処し、良いディフェンダーであることを証明してみせた。中盤には、山瀬とともに精力的な働きをする鈴木啓太がいるし、前線には、永井雄一郎と田中達也がいる。永井はいつも多くの人々を魅了するだけでなく、日曜日にはグランパスのディフェンダーであるパナディッチをも魅了したし、田中は素晴らしいスピードと潜在能力を持っている。

 外国人選手を見ると、エジムンドが退団して、バスコ・ダ・ガマに復帰した。エメルソンも万全ではないが、一応フォワードの柱として期待されている。オーストラリア出身の不運なリベロ、ゼリッチは、シーズン前のオーストラリア・キャンプで左足のハムストリングを断裂し、いまも治療を続けている。
 ゼリッチは今週の練習に参加して、軽い運動をするそうだ。大きな戦力になりうるゼリッチの完全復帰は、レッズのファンも楽しみにしていることだろう。
 こと、山瀬に関していえば、彼は日曜日にほんのわずかの時間プレーしただけであるが、苦労が続くレッズ・ファンの元気の素となったのである。

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再びフォワード不足に陥った日本代表

2003/04/06(日)

 4月16日、ジーコ監督の指揮のもと日本代表は4戦目を戦う。 2002年ワールドカップベスト4、韓国代表との試合がソウルで行われるのだ。(韓国のベスト4というのも未だに信じられないのだが)そして、ジーコ監督はその代表チームの選出をJリーグでプレーする選手の中から行うこととなる。
 代表チームのスケジュールが立て込む中、ジーコ監督は海外でプレーする選手を呼ぶのは中止になってしまったアメリカ遠征と、6月にフランスで行われるコンフェデレーションカップのみであると明言していた。
 従って、火曜日に対韓国代表戦のメンバーが発表される際には、対ウルグアイ戦のために帰国した海外でプレーする7人の選手達は含まれないと考えざるを得ない。
 これは、ジーコ監督にとってベストコンディションで頼れるストライカーが決定的に不足している事を意味している。
 23人のアメリカ遠征のメンバーに、フォワードはわずかに4人しか選ばれていなかった。ヨーロッパ組からは高原と鈴木、そしてJリーグからはゴン中山と黒部である。中山はウルグアイ戦を負傷のため辞退したが、土曜日の対ガンバ大阪戦ではチームに復帰した。

 私の考えでは、現在のJリーグでプレーするベストフォワードは柳沢敦だ。
 彼は、2月19日に東京・国立競技場で行われたA3マツダチャンピオンカップのジュビロ戦で受けたファールで足首と膝を負傷し、今週末ようやくチームに復帰したばかりだ。
 ジーコ監督は明らかに代表戦で充分に戦えない中山と柳沢を選ぶのだろうか?
 選ばないのであれば、誰を代わりに選ぶのだろうか?
 おそらく彼は、2000年に福岡大学から京都に入団し、めざましく上達した黒部を選ぶだろう。対ウルグアイ戦でも、この茶パツのストライカーは怯むことがなかった。韓国のホームグラウンドで対峙する日本代表に必要なものは、このような積極的な姿勢と勇気、そして選手それぞれが役目をきちんと果たす事だ。

 私が考える韓国戦でのフォワードは、まず横浜F・マリノスの久保竜彦である。
 彼は強く、攻撃的で、そして空中戦でもパワフルで恐れを知らない。高原や柳沢のように、ボールに絡んでいなくても、彼の疲れを知らない走りはピッチを広くカバーする。そして他の選手のためにスペースを確保しチャンスを作るのだ。
 私は今でも、久保がフィリップ・トルシエ率いるワールドカップ日本代表に選出されなかったのは不運だったと思っている。経験の割に荒削りなところはあるが、彼には意外性がある。
 久保については、誰も次に何が起こるのか想像がつかない。そして、久保自身が何をするのかわからないという事は、守備陣にはなおさら想像がつかないだろう。
 彼は何と言っても爆発的なプレーヤーであり、私の中では韓国戦のフォワード第一候補である。そして、黒部が入るだろう。また、土曜日のレイソル戦で問題がなければ、私は柳沢も選ぶだろう。
 しかし、ジーコ監督にはそれほど選択肢は残っていないだろう。そう思いませんか?
 おそらくは、4−3−2−1のように1トップ、小笠原とアレックスが久保の後ろに、そして3人のボランチを4バックの前に置く陣形が答えになるだろう。

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トルシエ登場

2003/04/03(木)

 そこには、ジーコがいた。川淵三郎もいた。山本昌邦もいたし、もちろん彼が指揮するオリンピック代表チームも勢揃いしていた。
 しかし、本当に話を聞きたいと思う人物は、ただ一人。
 フィリップ・トルシエだった。

 このフランス人が日本に戻ってきたのは、共催国をセカンド・ラウンドまで導くという使命を達成した、2002年ワールドカップ以来である。
 火曜日、彼は愛知県豊田市の豊田スタジアムにいて、日本とコスタリカのU-22代表による国際試合のテレビ中継にゲスト出演することになっていた。
 トルシエが試合後にメディアの取材に応じるかどうかに関心が集まっていたが、日本サッカー協会は親切にも試合後に簡単な記者会見の場を用意してくれた。同席者は、よりによってトルシエの後任であるジーコと、トルシエが在任した嵐の4年間にトルシエ批判の急先鋒に立っていた川淵三郎・日本サッカー協会会長であった。

 キックオフの2時間ほど前にスタジアムに到着した私は、トルシエに出会わないものかとスタジアム内の通路をあちこち歩き回っていた。
 実は、私はもう一度彼に会いたいと思っていた。彼のユーモアや哲学、練習法、サッカーに対する情熱にもう一度触れてみたいと思っていたのである。
 ふいに目の前のドアが開かれ、トルシエが外に出てきた。両わきには通訳と中継をするテレビ局の担当者がいた。
 トルシエはとっさに関係者用のパスを見せびらかした。パスには”Official”という文字が記されている。
「どうだい!」とトルシエ。「僕もメディアの一員になったというわけだ。質問に答える側から、質問する側になったんだ」
 私は、昨年末に手術を受けたヒザの具合を訊ねた。
 具合が申し分ないことを証明するために、トルシエは速いテンポでアイルランド風のダンスを踊ってみせた。「タイタニック」のレオナルド・ディカプリオのように華々しくはなかったが、なかなか見物ではあった。
「また、試合のあとで。これからキャプテンに会わなければならないので、時間がないんだよ」トルシエはウインクしながらこう言うと、テレビのスタッフにエスコートされ、その場を去った。
 トルシエが会う相手は、もちろん、川淵さんである。氏のニックネームは、日本サッカー界のトップの座を継承したことにより「チェアマン」から「キャプテン」に変っていた。

 試合後、私は冗談まじりに、就任後の成績がぱっとしないジーコに代わって日本代表監督になって欲しいと川淵会長から頼まれなかったか、とトルシエに訊ねた。
 トルシエは一瞬考え、それから答えた。「頼まれたよ…。でも、45歳以上の日本代表だった」
 真面目な表情に戻ったトルシエは、今回のオリンピック代表は、今後も一生懸命練習し、経験をつめば、2000年のシドニー・オリンピックで自分が指揮したチームと同じくらい素晴らしくなれる、と語った。
「今日の試合は、アテネ・オリンピックの予選を突破するための強化策の第一歩だったわけだが、選手たちの姿勢は申し分なかった。結果も満足できるものだ」。1−1で引き分けた日本代表について、トルシエはこうコメントした。
「一緒にやる機会がもっと多くなれば、チームはさらに良くなると思う」 私はトルシエに、「キックオフの前に『君が代』が斉唱された時、どのように感じたか」と訊ねた。
「日本人になったような気分が少しした」とトルシエ。
「日本が負ければ、私はパリの自宅で泣く。勝てば、一杯やりながら祝う。サッカーと、飲むことはまったく切り離せないね。負けた時は悲しいから飲むし、勝った時はもっと飲む」
 トルシエがいたおかげで、いつも真面目なジーコも明るくなったように見えた。ジーコは、見事な曲線を描いた阿部のフリーキックを「スゴイ・シュート」と日本語で表現した。
 ブラジルのフリーキックの達人から、素晴らしいお褒めの言葉が飛び出したのである。

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