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ようやく注目を浴びた手島

2003/01/06(月)

 日本ユース代表が準優勝した1999年ナイジェリアでのFIFAワールドユース大会を思いかえす時、皆さんは誰を思い出されるだろうか?
 決勝の対スペイン戦には累積イエローカードで出場できなかったとはいえ、もちろん小野伸二がいた。
 続いて、鹿島アントラーズのトリオ、レフトウィング本山雅志、中央には小笠原満男、そしてトルシエの3バックの左サイド、中田浩二がいた。
 決勝戦で小野からキャプテンマークを引き継いだ高原直泰も忘れてはいけない。
 しかしどなたか、手島和希を覚えておられるだろうか?
 京都パープルサンガのチームメート、辻本茂輝と中田、そして手島がディフェンスのレギュラーだったのだ。
 しかし小野や高原がヨーロッパへ飛び立ち、本山や中田らが日本代表へと成長していったのに対して、手島はほとんど誰にも注目されてこなかった。

 正月に行われた天皇杯決勝の鹿島アントラーズ戦での目を見張る活躍と勝利は、この23歳のキャプテンへの評価を一転させた。
 手島はパープルサンガのタイトなディフェンスをコントロールし、アントラーズのFW陣をことごとくオフサイドトラップの餌食にした。トルシエの残していった遺産は、手島の中にしっかり活きていた。
 小笠原のクリエィティブな才能や柳沢敦とエウレルの機動力をもってしても、アントラーズはスペースを見つけることができず、チャンスらしいチャンスを作ることもできなかった。
 京都のドイツ人監督、ゲルト・エンゲルスによると、これはすべて若き司令塔、手島のなせる技だという。
「彼にはスピードがあるし、ディフェンスをしっかりまとめられるうえに他のディフェンダーに対するカバーもきちんとこなすことができる」エンゲルスはそう語る。
「手島が中央にいることによって、他のディフェンダーはよりアグレッシブに動ける。手島が必ずカバーしてくれると信頼しているからね」
 私はエンゲルスに、手島は1999年ナイジェリアワールドユース大会のU−20代表チームのチームメートに比べて遅咲きなのかと尋ねてみた。
「いいえ、そうは思いません」彼は強く否定した。
「理由は分かりませんが、彼は過小評価されているのです、そして他の選手のように注目を受けていないのです」
「彼がチームの司令塔になってすでに2年になります」

 2001年にJ2で優勝、そして再昇格するや5位に食い込み、京都はこの2年ですっかりJリーグに定着した。
 本山は怪我で欠場したが、小笠原や中田率いるアントラーズ相手の天皇杯での勝利はエキサイティングなJ1復帰シーズンの締めくくりとなった。
 また、エンゲルスにとっては至極当然のことではあったが、ようやく手島に注目が集まった。

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