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2003年1月

いまも健在、ペリマン主義

2003/01/30(木)

 Jリーグ関係者の多くが、スティーブ・ペリマンを忘れないだろう。
 ペリマンは最近またニュースに登場するようになった。かつて指揮を執った清水エスパルスの選手、戸田和幸が、かつて自分が誇りをもってキャプテンを務めたクラブ、トットナム・ホットスパーズに移籍することが決まったからだ。

 土曜日、私はロンドンの自宅にいるペリマンに電話をして、戸田の移籍について感想をたずねた。
 大半の人とは違い、ペリマンは驚いていなかった。というのも、ペリマンはトットナム・ホットスパーズへの移籍をここ2年間ずっと戸田に勧めてきたのである!
「どういうわけか、これまでトットナムは戸田に関心を示そうとはしなかった。でも、その戸田がプレミアリーグの他のクラブでトレーニングしていると聞いて、急に焦りだしたんだよ」ペリマンは、戸田がサンダーランドの入団試験を受け、監督のハワード・ウィルキンソンから高い評価を受けたことを話題にした。
 結局戸田はスパーズと1年契約を交わしたわけだが、ロンドン北部のこのクラブは、戸田の報酬とは別に移籍金としてエスパルスに30万ドルを支払うことになった。

 ペリマンは、その正直さとフェアプレーの精神により日本でも忘れられない存在となるだろう。
 ペリマンは攻撃的なサッカーをするようチームを鼓舞し、ずるいことをしたり、時間稼ぎをしたり、ダイブをしたり、あるいは何もないのに負傷したふりをしたりする選手を嫌ってきた。
「日本はフットボールの世界に遅れてデビューした。」
 土曜日、ペリマンは私にこう語った。
「でも、日本は世界中のチームから学ぶことができる。ブラジルでも、イングランドでも、オランダでも、どこでも、良いところだけをとればいいんだ。
「それに、嫌いなところ、不必要なところはそぎ落とすこともできる。イングランドなら、もちろんファンの情熱は見習うべきだよね。でも、フーリガンはごめんだ」
 ペリマンの考え方は、いつも揺るがない。

 彼がエスパルスの指揮を執っていたころ、同じ静岡を本拠地とするジュビロ磐田との対立関係は激しいものであった。
 もっとも、ペリマン本人は、ジュビロ磐田はレフリーやリーグ関係者からごひいきにされ、特別な恩恵を受けているチームであると考えていたようで、「JリーグのJはジュビロのJだ」と言い放ったこともあった。
 事の真偽はともかく、昨シーズンジュビロ磐田が両ステージを制覇するほどの頑張りを見せたのには、ペリマンのこうした発言が多少は影響していたのかもしれない。
 ジュビロが両ステージを制覇したのは、「欺くことより、サッカーに意識を集中するようになったから」とペリマンは感じているようだ。

 彼がよく憶えているのは、1999年の4月に日本平で行われた、ジュビロが5−2で勝利を収めた試合だ。
「4−2となるゴールが決まり、エスパルスの服部(浩紀)がボールを持ってセンター・サークルに戻ろうとしたんだ」とペリマンは回想する。
「しかし、彼はジュビロの選手2人につかまり、ゴールネットに押し付けられてしまった。
「小競り合いがあり、レフリーが下した判断は服部へのレッドカードだった。ゲームをすぐに再開しようとしていた選手が退場処分を受け、その選手の邪魔をした2人の選手はそのままピッチに残ったんだ!
「試合後、私はジュビロの監督に、Jリーグ史に残るような、日本サッカーにとって最悪の日だと言ってやったよ」
 ペリマンはマスコミでジュビロを批判した。発言は多少の効果があったかもしれないと言う。
「言いたいことを言えば、敵もできるだろう」とペリマン。
「でも、もしジュビロがサッカーだけに集中していれば、我々を5−2ではなく、10−2で破ることができたかもしれない。ジュビロの方が我々よりずっと素晴らしかったからね」
 ペリマンのことを、ジュビロ磐田は忘れるかもしれない。しかし、フェアプレーを望む多くの人々は彼のことを忘れないだろう。

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カフー獲得が示すJリーグの向上

2003/01/26(日)

 カフーの獲得を喜んでいるのは、何も横浜F・マリノスのサポーターばかりではない。
 6月末にASローマとの契約が切れる、2002年ワールドカップ優勝チーム・ブラジルのキャプテンが日本でプレーする。それはJリーグ全体をも興奮に包むことになるだろう。
 カフーは現在32歳、そしてF・マリノスでプレーする頃には33歳になっている。
 彼の体調は万全で、クラブのトッププレーヤであり、決して峠を越えたプレーヤーではない。
 2002年ワールドカップは、カフーがカナリア・イエローに袖を通した3回目の大会であった。そして彼はブラジルの7戦全てにフル出場した。トータル630分、すなわち10時間半もの間、途中交代もせずにである。これは彼がどれだけチームにとって重要であったかという事を証明している。
 彼以外にフル出場したのはGKマルコス、DFルッシオ、そしてアトレチコ・ミネイロからアーセナルへ移籍し、イングランドスタイルのサッカーに素早く適応したMFジルベルト・シルバの3人しかいない。

 おそらくカフーはイタリアに残り、ローマより下位のチームに移籍する事もできたはずだ。
 もしくは、彼の右サイドをえぐる攻撃力、そしてリーダーシップと経験は、尊敬され、威厳のあるキャプテンを求めているチームにとってかけがえのないものとして、他のヨーロッパの国へ行くこともできたはずである。
 しかし彼は日産のバックアップを受け、セリエA並みの年俸を払える横浜を選んだ。
 来季より岡田武史が指揮を執る横浜は、レッジーナへの完全移籍が決定した中村俊輔に代わるスタープレーヤーが必要だったのだ。
 カフーの移籍はより多くの観衆をスタジアムに呼ぶことは間違いない。そして来季は、スタイリッシュなブラジル人プレーヤーを見ようと多くの人々が集まり、チームは新たなファンを獲得できるだろう。

 カフー(本名:Evangelista de Moraes Marcos)は1989年にサンパウロでデビューした(所属:1988〜1994年)。ブラジルのパルメイラスに戻る前の1994〜1995年の1年間をスペインリーグのレアル・サラゴサで過ごした。
 1997年にはイタリアのローマに移籍し、6月30日に契約が切れるまでの6シーズンを過ごす。
 かつてのローマでのチームメート、中田英寿についてカフーがどう考えているのか興味深いところだ。特に今シーズンのローマは中田の攻撃力が必要だったように思える。
 ローマにとって、ほとんどベンチで座っているだけの選手に対する2600万ドルのオファーが断りきれないものだったとしても、カフーはローマが中田を手放したことは間違いだったと思っているのではないだろうか。
 カフーが横浜に来るということは、すなわち3度のワールドカップに出場し、1994年、そして昨年と、2度の優勝を手にした男からJリーグが認められたということである。

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アジアサッカーの地平を広げる新大会

2003/01/23(木)

 日本、中国、韓国のチームが競い合うA3マツダ・チャンピオンズカップ。
 今週、東京の記者会見で発表されたこの新大会には、上記の東アジア3か国のチャンピオン・チームが出場する。
 第1回大会は2月16日から22日まで東京・国立競技場で開催され、日本からはジュビロ磐田(リーグ・チャンピオン)と鹿島アントラーズ(ナビスコ杯優勝チーム)の2強が出場し、中国からは大連実徳、韓国からは城南一和が出場する。
 賞金額も出場4チームにとってきわめて魅力的なものとなっており、4チームのリーグ戦で優勝したチームには賞金総額85万ドルのうち、40万ドルが贈られる。

 重要なのは、この大会が代表チームの大会ではなく、クラブ・チームの大会であることだ。クアラルンプールに事務局を置く、競技の地域統括団体、アジア・サッカー連盟(AFC)は、この点を何度も強調した。
 AFCはもちろんA3マツダ・チャンピオンズカップのような注目度の高い大会を歓迎しているが、それにはAFC版のチャンピオンズ・リーグが未だ実現されていないという事情もあるのだろう。
 日本のファンにも、東京・国立競技場で戦われる6試合を楽しみにしていただきたい。
 昨年のワールドカップは日韓の関係を深めるのに大いに役立っており、両国のパートナーシップの延長線上にあるのが今回の新たなイベントであると言える。中国もワールドカップ初出場を果たしているので、今回の大会は大きな話題となるかもしれない。

 1997年に香港から日本に移り住む前に、私は何度か中国を訪れている。クラブ・チャンピオンシップやアジア・カップ・ウィナーズ・カップ、アジア・スーパーカップといったAFCのイベントを観るのが目的であった。(これら3つの大会は、単一のフォーマットに新たに再統合され、AFCチャンピオンズ・リーグとなっている。)
 しかし、一般やメディアの関心の低さにはがっかりさせられたものだ。
 個人的には、たとえばタイやイラクであっても、外国のサッカー選手を見て、テクニックや戦術、身体能力を日本のチームや選手と比較するのはとても楽しいことだと思う。
 サッカーは基本的には世界共通である。それゆえ世界中で人気があるのだが、同時に姿勢、戦い方、心理には個性が表れるものだ。

 2004年の第2回A3開催国は中国(A3とは日本、中国、韓国のアジア3強の意)、2005年大会では韓国が開催国となる。 Kリーグ事務局長のキム・ウォンドン(金元東)氏によれば、大会の最終目標は12チーム参加の東アジア・スーパー・リーグであり、その大会では3つのグループ・リーグを勝ち上がった4 つのクラブがホーム・アンド・アウェイ方式で優勝を争う。
 そのときには、大会の試合は週の半ばに行われ、リーグ戦は中断されることなく週末に行われることになり、費用と大会に見合った賞金を提供してくれるスポンサーが見つかれば、このフォーマットは2006年にもスタートする見込みだそうだ。
 ワールドカップの成功後、アジアのサッカー界には新たなエネルギーが生まれている。
 ファンの皆さんにはA3マツダ・チャンピオンズカップを応援するとともに、中国や韓国のスター選手と日本のスター選手を見比べて欲しいと思う。
 サッカーを堪能できる、1週間となるだろう。

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ヴェルディの楽観的な選手補強

2003/01/19(日)

 東京ヴェルディ1969がパトリック・エムボマを獲得した事には、少なからず驚いた。 そして、それがきっと大勢の正直な感想であろう。
 昨シーズン終了後にエジムンドを失ったヴェルディは、ファンのためにも新たなスターを連れてくる必要があった。
 1997年、1998年とガンバに在籍し、ヒーローとして活躍したエムボマなら最適だろう。 しかし32歳になった彼は、ヴェルディやメインスポンサーである日本テレビが費やした額に見合う活躍を今もできるのだろうか?
 これは答えに窮する難しい質問だが、私が思うのはもしこのカメルーン人CFがシーズンをフルに活躍できるとヴェルディが考えているなら、それはあまりにも楽観的過ぎるということだ。

 ここ数シーズンというもの、エムボマはとても好調といえるものではなかった。
 私はスカイパーフェクトTVで中田英寿を追い続けているが、エムボマは不調にあえぐ先シーズンのパルマでさえ自分の居場所を得る事ができなかったではないか。
 シーズン途中でエムボマはパルマからプレミアリーグのサンダーランドに移籍した。
 その移籍が成立した頃、英国のジャーナリストから取材を受けた私は、「彼がガンバにいた頃は絶好調で多くの素晴らしいゴールを決めたとはいえ、それも過去の話で、今はイングランドのサッカーについていくには遅すぎる。エムボマ獲得は良いとは思えない」と話した。

 ワールドカップでエムボマはカメルーンの全3試合、対アイルランド戦、対サウジアラビア戦、対ドイツ戦のいずれも途中交代している。
 1−1の引き分けに終わった新潟での対アイルランド戦で先制ゴールを決め、そしてFIFAよりリゴベール・ソング、サミュエル・エトー、サロモン・オレンベと並んでカメルーンの4人のベストプレーヤの1人に選ばれた。
 従って、彼がまだスターである事は証明されたが、それが長いシーズンを通してコンスタントに発揮されるかどうかは疑問である。
 ヴェルディは大胆なことをしたと思うが、1つ確かな事はJリーグに有名選手を連れてくる事でメディアからの注目度が上がるということだ。


 ガンバにいた頃のエムボマは、まさにセンセーショナルな選手であった。34試合に出場し29得点を挙げ、1998年ワールドカップの後、イタリアのカリアリに移籍した。  彼のパワフルな左足は彼に、“ブームブーム”というニックネームをつけさせた。そしてカメルーン代表を率い、アフリカ最優秀選手にまでなった。
 来シーズンのヴェルディはエムボマをかばいつつ、主力エジムンドの抜けた穴を彼が埋めてくれる事を願うことになるだろう。
 しかしエムボマにとって、それは容易な事ではない。

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高校サッカーの違和感

2003/01/16(木)

 年始に行われる高校サッカーの決勝の取材はいつも楽しいものである。
 選手権の主催者には敬意を表したいし、試合中の雰囲気も素晴らしいと思う。サッカーはつねにサッカーであり、選手たちは学校の名誉のために全力を尽している。
 とは言え、ビックリするのはこのイベントの取材に駆けつけるメディアの数だ。
 たとえば月曜日の東京国立競技場。240人の記者と140人のカメラマン、取材するテレビ局の数は6つのキー局を含めて20。
 試合終了後に選手たちが数多くのメディアに追いかけられる様子は、横浜でのワールドカップ決勝戦後のロナウドを彷彿させるものであった。
 ただし、私はこのようなやり方を批判したいのではない。ヨーロッパや南米とどれくらい違っているかを示したいだけだ。

 日本では、選手のほとんどが17歳か18歳で、高校に在学している。将来Jリーグに入る者もいれば、大学に進む者もいるだろう。
 イングランドでは、この年齢の若くて優秀な選手たちはすでにプロ・クラブに所属している。彼らは学校を出て16歳で練習生としてクラブに入り、17歳でプロになることができる。ちょうどウェイン・ルーニーがエバートンでやってみせたように。
 イングランドの高校サッカーの決勝はどうだろう?
 私はそれがあるのかどうかさえ知らない。メディアがまったく取り上げないからだ。デイリー・テレグラフのような大新聞には、決勝の結果が一行くらい載るかもしれないが、選手自身やその両親以外はだれも興味を示そうとはしないだろう。

 しかし日本の高校選手権はビッグ・イベントとなっており、これには良い点も悪い点もある。
 もちろん、若くて優秀な選手を見ることができるのは良い点だと思う。彼らの多くがJリーグのレギュラーになるのだから。
 だが、こんなにも名が知れ渡り、こんなにもメディアの注目を浴びることは、この年代の選手たちにとって果たして良いことなのだろうか?
 私は6年間日本にいるが、外国人や一部の日本人が異口同音に言うのは、日本ではあまりに若いうちに「スター」になってしまうということだ。サッカー選手としてさほどの実績を挙げもしないうちから、選手は持ち上げられ、有名雑誌でも取り上げられる。
 フィリップ・トルシエが言っていたのだが、このような扱いは選手たちを軟弱にし、うまくなりたいという熱意を奪い、自分がすでに大物になったと思い込ませてしまう。

 ジュビロの若きフォワード、前田のことをあまり取り上げないでくれと、ドゥンガから頼まれたことがあった。あれは前田が見事な個人技のシュートを決めた、エコパでの試合のあとだった。日本の選手は早いうちから注目されすぎる、とドゥンガは言っていた。
 さらに、ジェフ・ユナイテッド市原の前の監督であるジョゼフ・ベングロシュは、阿部や羽生などの若手の有望選手について語るのをいつもはばかっていた。メディアに取り上げられ、うぬぼれてしまうかもしれないというのがその理由であった。ただし、彼らの才能はひそかに評価していた。

 高校選手権の取材は私にはとても楽しいものであるが、選手の実力は世界のサッカーという高い視点に立って評価されなければならない。

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戸田は新たなチャンスに感謝すべき

2003/01/12(日)

2002年ワールドカップにおいて、最もがっかりさせられた事の一つが、トルコ戦敗戦後の戸田のコメントであった。
多くの日本人の友達から聞いた話だが、テレビで戸田はフィリップ・トルシエには2度と会いたくないとコメントしたそうだ。
トルシエは戸田に大きなチャンスを与えたにもかかわらず、だ。
戸田は2001年5月31日に新潟で行われたコンフェデレーションカップ、対カナダ戦で日本代表としてデビューした。
彼のアグレッシブさと、相手の攻撃を分断する能力は、一躍彼を稲本潤一と並んで日本代表ミッドフィールドの大黒柱に押し上げた。
戸田はワールドカップ全4試合でフル出場を果たし、中田英寿からも彼のホームページで絶賛された。
そう、戸田はトルシエから与えてもらった大きなチャンスにもっと感謝すべきであったし、さらにはその感謝への大きな借りがあったはずだ。
トルシエの後継者ジーコに、最初の2試合で日本代表から外されたことで、彼の目が覚めたと私は信じたい。

いずれにせよ、このコラムで私が言いたいのは、戸田は今、日本の“ヨーロッパ派遣団”の一員になるチャンスにあるという事だ。
彼はサンダーランドの2週間にわたるトライアルに招かれたのだ。そして彼も明らかにプレミアリーグに残りたいと思っている。
彼はエスパルス監督、ズドラヴコ・ゼムノヴィッチと折り合いが悪く、昨年は良いシーズンを送ることができなかった。
しかしサンダーランドからのオファーにより、ここにきて状況は俄然明るくなっている。

私はサンダーランドをよく知っている。まだ私がイングランド北東部で新聞記者をしていた頃、多くの試合を取材したものだ。サンダーランドはイングランドでも最も寒い場所の一つだが、ファンの情熱と熱気はイングランドでもピカ一だ。
彼らは使えるヤツ・使えないヤツをすぐに見抜き、誰が気合が入っているか、手を抜いているかすぐわかるのだ。
戸田は持てる限りの力を発揮するだろうが、ハイレベルな彼らについていけるかどうかはやってみなければ何とも言えない。
プレミアリーグのペースはJリーグや、更には国際マッチに比べて格段上だ。タックルはすばやく激しい。それこそ戸田が日本でプレーしている時のように、ボールを長くキープしている暇などないはずだ。
戸田のポジションでは、マンチェスター・ユナイテッドのロイ・キーン、アーセナルのパトリック・ヴィエラ、そしてリバプールのサリフ・ディアオといったワールドクラスのプレーヤーがひしめく。
戸田はトレーニングでの態度や努力でサンダーランドの監督、ハワード・ウィルキンソンを感心させる事ができるかもしれない。しかし、練習試合ではイングランドスタイルのスピードとパワーに素早く慣れる必要がある。

今でも私は、彼がトルシエについて語った事は間違っていると思っているが、選手として更に成長したいという彼の挑戦が実りあるものになるよう願っている。

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久保の苦渋の決断

2003/01/09(木)

 1人の選手がチーム全体よりも重要ということは絶対にありえない。
 しかし、シーズン最終日に降格が決まったサンフレッチェ広島の場合、1シーズンでのJ1復帰を目指すとしたら、センターフォワードの久保がいるといないでは大きな違いがあるだろう。
 現時点では、久保は将来を決めかねている。
 サンフレッチェからは契約更新の申し出を受けているが、横浜F・マリノスをはじめとするJ1の複数のクラブも久保獲得へ興味を示している。
 将来については口を閉ざしたままの久保の態度から、サンフレッチェでは広島に残るかもしれないとかすかな望みを抱いているようだ。
 クラブの広報部長である真鍋茂はこう説明する。「久保はチームにとってとても重要な選手ですから、ぜひサンフレッチェ広島に残って欲しいと思っています。
 「そのため、クラブの社長も、コーチ陣も、チームメートも、チームに残るよう久保を説得しているところです。しかし、複数のチームが久保の獲得を目指しているという情報も、もちろん知っています」

 久保はサンフレッチェの柱となる選手であり、1996年のデビュー以来リーグ戦で67ゴールを記録している。
 空中戦に強く、スピードも勇気もある選手であるが、トルシエが率いた23人のワールドカップ代表チームに選ばれなかったとても不運な選手でもある。
 私なら西沢明訓の代わりに久保を選んでいただろう。
 たしかにワールドカップの先発レギュラーというわけにはいかなかっただろうが、久保は途中出場で何か違ったこと、何か予測不可能なことをやってくれていただろう。
 たとえば、トルコ戦。日本チームはまったく機能していなかったが、元気と意欲に溢れた久保を後半に投入していれば何らかの結果が得られたかもしれない。
 もちろん仮定の話に過ぎない。しかし久保が何かをしてくれる選手であるというのは、確かである。

 ジュビロ磐田も久保獲得に興味を示している。高原直泰の代わりという意味もあるが、中山雅史がいつまでも溌剌としたプレーを続けられる保証はないという事情もあるからだろう。
 高原と同じように、久保もボールから離れた位置でも精力的な動きを見せるので、中山とのコンビは効果を発揮するかもしれない。
 さらに、タレント揃いのジュビロなら、点をとらなければならないというプレッシャーも広島のときより軽くなるかもしれない。
 ピッチを離れた久保は物静かな性格で、静かな生活を好むタイプなので、幼い子供のいる家族とともに広島の地に残り、1シーズンでチームをJ1に復帰させることを目指す可能性もないとは言えない。

 また、久保のチームメートであり、調子の良いときにはとても理知的でクリエイティブなプレーを見せる藤本主税の動向にも大きなクエスチョンマークが付いている。
 藤本は名古屋グランパスエイト入団の可能性が高い。トヨタ出資のクラブが中盤でイマジネーションを発揮できる選手を求めているからだ。
 現在はサンフレッチェにとって苦難のときかもしれないが、ブラジルのベテラン選手セザール・サンパイオを柏レイソルから見事獲得したという明るい話題もある。
 ただし、来シーズン、久保と藤本がサンパイオと同じチームでプレーするかどうかは未だ不明である。

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ようやく注目を浴びた手島

2003/01/06(月)

 日本ユース代表が準優勝した1999年ナイジェリアでのFIFAワールドユース大会を思いかえす時、皆さんは誰を思い出されるだろうか?
 決勝の対スペイン戦には累積イエローカードで出場できなかったとはいえ、もちろん小野伸二がいた。
 続いて、鹿島アントラーズのトリオ、レフトウィング本山雅志、中央には小笠原満男、そしてトルシエの3バックの左サイド、中田浩二がいた。
 決勝戦で小野からキャプテンマークを引き継いだ高原直泰も忘れてはいけない。
 しかしどなたか、手島和希を覚えておられるだろうか?
 京都パープルサンガのチームメート、辻本茂輝と中田、そして手島がディフェンスのレギュラーだったのだ。
 しかし小野や高原がヨーロッパへ飛び立ち、本山や中田らが日本代表へと成長していったのに対して、手島はほとんど誰にも注目されてこなかった。

 正月に行われた天皇杯決勝の鹿島アントラーズ戦での目を見張る活躍と勝利は、この23歳のキャプテンへの評価を一転させた。
 手島はパープルサンガのタイトなディフェンスをコントロールし、アントラーズのFW陣をことごとくオフサイドトラップの餌食にした。トルシエの残していった遺産は、手島の中にしっかり活きていた。
 小笠原のクリエィティブな才能や柳沢敦とエウレルの機動力をもってしても、アントラーズはスペースを見つけることができず、チャンスらしいチャンスを作ることもできなかった。
 京都のドイツ人監督、ゲルト・エンゲルスによると、これはすべて若き司令塔、手島のなせる技だという。
「彼にはスピードがあるし、ディフェンスをしっかりまとめられるうえに他のディフェンダーに対するカバーもきちんとこなすことができる」エンゲルスはそう語る。
「手島が中央にいることによって、他のディフェンダーはよりアグレッシブに動ける。手島が必ずカバーしてくれると信頼しているからね」
 私はエンゲルスに、手島は1999年ナイジェリアワールドユース大会のU−20代表チームのチームメートに比べて遅咲きなのかと尋ねてみた。
「いいえ、そうは思いません」彼は強く否定した。
「理由は分かりませんが、彼は過小評価されているのです、そして他の選手のように注目を受けていないのです」
「彼がチームの司令塔になってすでに2年になります」

 2001年にJ2で優勝、そして再昇格するや5位に食い込み、京都はこの2年ですっかりJリーグに定着した。
 本山は怪我で欠場したが、小笠原や中田率いるアントラーズ相手の天皇杯での勝利はエキサイティングなJ1復帰シーズンの締めくくりとなった。
 また、エンゲルスにとっては至極当然のことではあったが、ようやく手島に注目が集まった。

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京都の希望、関西の希望

2003/01/03(金)

 黒部光昭が天皇杯決勝で決めた見事な決勝ゴールは、歴史的なトロフィーを初めて京都パープルサンガにもたらしただけではなかった。
 黒部のゴールは関西のあらゆるクラブに、来シーズンは自分たちも栄誉を手に入れ、ジュビロ磐田と鹿島アントラーズの2強支配に割って入ることができるのだ、という希望を与えたのである。
 黒部がペナルティー・エリアの端から放った左足の強烈なシュートがゴールキーパー、曽ヶ端準の手をかすめ、ゴール上隅に突き刺さって決勝ゴールとなり、京都はアントラーズとの激戦を2−1で制した。
 黒部のゴールが決まったのは80分過ぎ。日本のカップ戦で抜群の成績を誇る鹿島の、ナビスコ・カップと天皇杯の2冠を阻止するには、京都は10分間耐えればよかった。

 京都に対する祝福の嵐が自然と巻き起こった。祝福は京都のファンだけでなく、中立の立場の全てのファンからのものでもあった。
 権威あるトロフィーに新しい名前が刻まれ、日本中にその栄光が響き渡るのは、やはりさわやかで画期的なことなのである。
 だから、この日は黒部にとって、京都にとって、そして関西にとっても誇りある日であった。何と言っても、1993年のJリーグ発足以来関西のクラブが初めて手にした栄誉なのである。
 Jリーグ発足時の10チームに列していたガンバ大阪に加え、その後セレッソ大阪や京都パープルサンガ、ヴィッセル神戸が次々とリーグに参加したが、どのチームもリーグ総合優勝やナビスコ・カップ、天皇杯といった主要なタイトルとは縁遠かった。
 一方のアントラーズは1993年以来、9回の主要タイトル獲得を数え、リーグで4度、ナビスコ・カップで3度、天皇杯で2度優勝を飾っている。
 さらに、ジュビロ磐田は今シーズンを含めてリーグ優勝3回を数え、ナビスコ・カップでも1回の優勝がある。

 パープルサンガの勝利を振り返った黒部は、関西地域全体にとって意義のある勝利だと強調した。
「京都が天皇杯を獲得したことは、来シーズン、関西のあらゆるクラブの刺激になると思います」と黒部は語る。
「今日は挑戦者の立場でしたし、負けてもともとでもありました。
「しかし試合が始まるとチーム全体に、優勝するぞという気迫、やる気がはっきり出ていました。
「下馬評が低くてもタイトルは獲れるんだということを僕たちは証明しました。今回の京都の優勝は来シーズン、関西の自信になるでしょう。
「個人的には、この試合の後、早く次のシーズンが始まって欲しいと思っています!」

 前半15分過ぎ、柳沢敦の絶妙なチップキックのシュートがクロスバーを叩き、ブラジル人ストライカー、エウレルが至近距離からのヘディングでゴールを決めた時には、鹿島がゲームを支配するように思えた。
 しかし後半、韓国代表のスター、朴智星(パク・チソン)のポジションをライトウィングからストライカーの後ろで自由にプレーできる位置に変えた、京都のドイツ人監督、ゲルト・エンゲルスの決断が功を奏した。
 後半ちょうど5分過ぎ、右サイドでの鈴木慎吾のフリーキックに朴が頭で合わせて同点ゴール。
 これでゲームの流れが大きく変り、黒部を先頭に5人の攻撃陣を配した特徴的な布陣で京都が攻勢に転じる。
 そして80分過ぎ、栄光へのチャンスを掴んだセンターフォワードが堂々たるゴールを決める。
 京都にとって忘れられない日となったのはもちろんだが、今回の京都の勝利により関西が心理的なバリアーを打破し、来シーズンのJリーグをより活発にする起爆剤になって欲しいと思う。

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