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日本の終わりなき物語

2002/06/16(日)

 ワールドカップでの日本の冒険は、グループHを見事勝ち抜き、いよいよ3週目に入る。
 青のユニフォームに身を包んだフィリップ・トルシエのチームは、金曜日に大阪で行われたチュニジア戦で引き分けてもベスト16進出が可能だったが、勝ちに行くだろうというのが大方の予想であった。
 そして日本は、先週の土曜日にロシアを破り、ワールドカップでの歴史的初勝利を果した試合に勝るとも劣らないパフォーマンスを発揮した。

 大阪の陽射しのなか、日本の選手たちはピッチを縦横に駆け回り、うだるような暑さの後半戦、アフリカのチームを粉砕したのである。
 次の試合は、火曜日の午後、仙台近郊の宮城スタジアムでのトルコ戦だが、わずか2回のワールドカップ出場で日本がさらに先のステージに進出することも充分考えられる。

 トルコは、グループCでの立ち上がりがあまりよくなく、まったく望みのない中国をなんとか3−0で破り、コスタリカを抜いてグループ2位の座を確保した。
 日本がトルコを怖れる理由はなにもない。トルコは、地区予選のグループでスウェーデンに次いで2位となり、ホーム・アンド・アウェイのヨーロッパのプレーオフで、弱体のオーストリアを破ってようやく本大会出場を決めたチームなのである。
 また日本戦では、トルコは、エムレアシクとエムレベロゾールの2人が出場できない。一方の日本は、ベスト・メンバーでゲームに臨むことが可能である。

 日本は5人の選手—稲本潤一、中田浩二、宮本恒靖、戸田和幸と控えのストライカー、中山雅史—が前の2試合でそれぞれ1枚ずつイエロー・カードをもらっており、チュニジア戦で2枚目のカードをもらえばセカンド・ラウンドの次の試合が出場停止になるところであった。
 しかし、だれもカードをもらわないようにプレーしたこと、とくにディフェンダーの中田と宮本、激しいタックルの中盤のコンビ、戸田と稲本がカードをもらわないようにプレーしたことに、日本チームの規律の高さが表れている。

 日本とトルコは過去に1度だけ対戦をしている。1997年6月15日、毎年行われるキリンカップの大阪での試合で、日本は森島寛晃のゴールにより1−0でトルコを破っている。
 その時と同じ選手が、チュニジア戦の後半開始から交替で入り、48分に先取点をあげたわけである。先発メンバーには入れなくても、森島は現在もトルシエが好み、もっとも信頼する選手である。
 森島はつねに利発で、精力的で、守備をディフェンダー任せにはしない。ゴールを奪う感覚も持っており、自身の所属クラブであるセレッソ大阪のホーム・グラウンドで行われたチュニジア戦では、素早い反応で右足のきれいなシュートをゴールネットに叩き込んだ。

 どの試合でも、トルシエは、柳沢敦、鈴木隆行という2人のストライカーを起用し、中盤から中田英寿がサポートするという形をとってきたが、専門家の多くは、日本は1人のストライカーを2人のミッドフィールダーがサポートする形のほうが良いのではないかと感じている。
 この戦術は、チュニジア戦の後半ではものの見事に当たった。このときは、鈴木がいつもの位置にいて、中田と森島が下った位置から相手を攻めるというものであった。
 トルシエがストライカーを2人配した場合には、中盤で中田の仕事が多くなりすぎることがよくあったのだが、森島が入ると、中田の負担がかなり軽減されるのである。

  その中田はチュニジアに大きく立ちはだかり、後半では見事なヘディング・シュートを決め、MVPを受賞した。
 ゴールを決めた後、中田は、右からクロスのボールを出した市川大祐に左手で投げキッスを送った。
 84分に中田が交替でピッチから下がるとき、チームメートたちは次々と中田の手を握った。
 タッチラインのトルシエも同様で、ダッグアウトに向かう中田の背を親しげに叩いた。

 青の熱病は日本中に広まった。トルシエの言うように、ワールドカップの3試合で彼のチームは「ダイナミックな勢い」を得たのである。
 そして、火曜日にトルコを破るのに必要なのは、その勢いなのである。

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