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2002年2月

ジェフの新指揮官 ドクター・ベングロシュ

2002/02/28(木)

 ドクター・ジョゼフ・ベングロシュは、日本での短い滞在中、広報活動には勝利した。
 しかし、これからの課題はさらに困難となる。ジェフユナイテッド市原の前任監督、ズデンコ・ベルデニックの素晴らしい業績が相手となるからだ。
 今月66歳になるベングロシュは、クラブ・チームと代表チームの両方で錚々たる実績を築いてきた。

 2回のワールドカップでかつてのチェコスロバキア代表を指揮し、90年のイタリア大会では準々決勝に導いた。また、ヨーロッパ選手権でも2度、チェコスロバキア代表を指揮し、1976年のベオグラードでは、スデニック・ネホダ、マリアン・マスニー、アントニン・パネンカといった名選手達を擁して大陸王者にもなった。

 クラブ・チームでは、1990年代にアストン・ビラ、フェネルバチェ、グラスゴー・セルティックスなどを指揮し、現在は千葉県のローカル都市で、洗練されているとは言い難いJリーグのチームを指揮しようとしている。

 ジェフユナイテッド市原の監督に就任してから数日後、この人当たりの良いスロバキア人の監督は一群の報道陣との懇談で、これから指導する選手達の名前とニックネームをよどみなく並び立てた。
 「来日前に選手のことは予習していました」とベングロシュは認める。

 「昨年末、監督就任を要請されたとき、何人かに相談しました。そのなかに、ジェフユナイテッドでプレーしたことのある、イワン・ハシェクもいました。もちろん、彼のことは良く知っていますから。ハシェクは、行くべきだって言ってくれました。良い人々がいる良いクラブだ、と」
 「決心したら、ジェフにチームの詳しい資料を送ってくれるように頼みました。仕事を始めるときに、名前をしっかりおぼえておけるように」

 ジェフユナイテッドは昨シーズンの総合順位で、Jリーグの強豪である鹿島アントラーズ、ジュビロ磐田に次ぐ3位という称賛に値する成績を収めたものの、スロベニア人監督のベルデニックは、選手獲得に金をかけている割には成績が今一つの名古屋グランパスエイトに移籍してしまった。

 そこにやって来たのがベングロシュである。昨年の11月下旬、ベングロシュは日本に滞在しており、アジア・サッカー連盟とUEFAが共同で開いていた上級コーチング・コースを指導していた。
 「昨シーズン、チームは好成績を収めました。私は継続を好むタイプの監督ですので、変更のための変更はしようとは思いません」
 「サッカーではつねに期待が高くなりがちですが、私がお約束できるのは、真面目に、一所懸命、プロとして仕事をするということです。チームには良い成績を収めて欲しいのですが、何位になるかは予測できません。拮抗したチームばかりの戦いですから」

 現時点ではジェフに日本代表の選手はいないが、ワールドカップに出場する選手はいる。スロベニア人のセンターバック、ゼリコ・ミリノビッチと韓国人のストライカー、崔龍洙(チェ・ヨンス)である。
 5月31日のソウルでのキックオフへカウントダウンが進むなか、この二人が代表選手に選出されるのはほぼ確実だろう。

 「ワールドカップは選手にも、国にも、共催する両国にとっても重要な行事であり、ワールドカップ前のリーグ戦について選手がどのように感じているかは、わかっています」とベングロシュはさらに語った。
 「クラブでのハードなトレーニング、ハードなプレーをワールドカップの準備と両立させなければなりません。クラブでのプレーが代表チームへの良い準備となることを、選手は理解しなければなりません」

 Jリーグの新たなシーズン、ベングロシュの最初のテストの場となるのは、日曜日、昨シーズンのJ2チャンピオン京都パープルサンガとのホームでの試合である。
 選手達が監督のように余裕と目的意識を持てれば、ジェフはベルデニックの輝かしい業績のあとも、順位表の上位に居続けることができるだろう。

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ブレーク間近のもう一人の「ONO」

2002/02/24(日)

 小野伸二は彗星の如く現れた。そして今、彼はロッテルダムの強豪、オランダ1部リーグ、フェイエノールトでまた頭角を現し、確実にヨーロッパの名プレーヤーへの道を歩いている。

 しかしJリーグには最近成長著しい攻撃的MF、もう一人の「ONO」がいる。来週末に開幕を迎えるJリーグの優勝候補のひとつ、柏レイソルの23歳、プレーメーカー、大野敏隆がその人である。

 レイソルのイギリス人監督、ステファン・ペリマンは今シーズンの大野はチームの鍵だと感じている。そしてそれを証明するかのように、彼をキャプテンに指名した。
 「彼は優れた技術を持った個人プレーに秀でた選手だ。しかし今ではそれだけでなく、周りのプレーヤーの事も活かす事ができるようになった」ペリマンは語った。
 「そもそも、私は彼の個人プレーについてどうこう言うつもりはない。彼はもともと優れたパサーでもあるからね」

 浦和レッズの本拠地、埼玉出身の大野は1997年7月に隣県千葉の柏レイソルからデビューした。出場数はちょうど100試合、そして16ゴール挙げている。
 ペリマンは昨シーズン途中から、チームを立て直しここまで育てた西野朗監督の後を継いでヘッドコーチから監督へと昇格した。
 西野監督指揮下のチームでは、大野はチームの司令塔としてプレーしていたが、ペリマンは一人のプレーヤーに大きなプレッシャーを与える事は相手のチームにとってもディフェンスしやすく、ひいてはチーム機能を止めてしまう事になると考えたのだ。

 そこで、ペリマンは大野にチームの為にこそ彼の天賦の才を行かしてくれるよう言ったのだが、既にその効果が現れていると感じている。
 「昨シーズンのセカンドステージでは、それこそ彼はチームプレーに徹してくれた」ペリマンはそう付け加えた。
 「彼は決して不満を言う事もなかったし、それどころか彼はきちんと自分の役目を果たしてくれた。それを見て、彼ならきっとキャプテンとしてチームを引っ張っていってくれると感じたんだ」

 レイソルサポーターから「ヒットマン」と呼ばれる大野敏隆は、浦和のキャプテンを務めた小野伸二よりも注目を受けるのは遅かったかもしれない。しかし彼もまた輝かしい未来に向けて歩みだしている。

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ビッグイヤーに備える崔龍洙

2002/02/21(木)

 先週末、注目を集めたプレシーズン・マッチのあと、崔龍洙(チェ・ヨンス)は、選手生活でもっとも重要な年に向けて順調に調子をあげている、と語った。
 日曜日、この28歳のストライカーが所属するジェフユナイテッド市原は、柏レイソルの本拠、日立柏サッカー場での「第8回ちばぎんカップ」でレイソルに0−1で敗れた。

 ゲームでの唯一の得点は、75分。崔と同じく韓国代表のメンバーである、柳想鐡(ユ・サンチョル)がディフェンスのミスからボールを奪い、ゴールのすみに低い弾道のシュートを決めた。
 得点は、レイソルが10人になったあとのことだった。後半4分に、レイソルのもう一人の韓国人選手、黄善洪(ファン・ソンホン)がジェフのDF茶野隆行ともつれあい、退場処分を受けていたのである。

 これら3人の韓国人プレイヤーにとって、今年は大切な年である。3人は、5月31日から6月30日まで日韓で共催されるワールドカップで、フース・ヒディンク監督が指揮する韓国代表チームのメンバー23人にそろって選出されることが予想されているのだ。

 「はい。エキサイティングな試合でした。柳と黄が相手にいましたから」と崔。
 「でも、負けたことはそれほど気にしてはいません。シーズンの開幕まで、まだ2週間ありますから。チームで練習したのはたった3週間だし、僕が練習に出られないときもありました。韓国代表チームのメンバーとしてアメリカでのゴールドカップに参加していましたから」

 「新加入の選手もいました。僕の調子も最高というわけではなかったけど、3月3日の開幕戦とあとに続く試合には間に合わせたいと思っています。長い1年になりそうですね」

 昨年、Kリーグの安養LGチータースから千葉を本拠とするジェフユナイテッドに移籍した崔は、すばらしいデビュー・シーズンをおくった。
 21得点は、リーグの得点王ウイル(コンサドーレ札幌)とは3点の差であり、ジェフユナイテッドは年間総合順位で3位という好成績をおさめた。

 日曜日、崔は前半、レイソルのタフなDF渡辺毅から厳しいマークを受けたが、後半は多くのスペースを見つけ、レイソルのゴールを何回も脅かした。
 彼はまた、ゴール裏での騒々しい振る舞いゆえに「イエロー・モンキー」として知られている一群のレイソル・ファンの罵倒の的にもなっていた。

 相手プレイヤーが声の届く距離までまで来ると、レイソルの黄色のユニフォームを着た若いファンは金網まで突進し、この不運なプレイヤーを露骨に侮辱するのである。
 崔はレイソル・ファンの挑発的な振る舞いに明らかにショックを受けた様子で、前半には警告として件のファン達を指差したりしていた。

 しかし、ワールドカップ・イヤーには、他に注意すべき大事なことがまだまだたくさんあるのである。

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川口の心強い味方

2002/02/17(日)

 川口能活にとって、イングランドでの日々が厳しいものになる事は最初からわかっていた事だ。
 昨年10月に川口が横浜F・マリノスからポーツマスに移籍する以前から、日本代表監督のフィリップ・トルシエは川口にラフでタフなイングランドスタイルのプレーには心するよう忠告していた。

 こうした心配は現実となりつつある。そして川口自身、リーグ戦、FAカップで失点を重ねた末にポジションを失い、それを嫌という程思い知らされた。
 しかし、人気者でカリスマ的でさえもあるこのキーパーは、クラブの中で少しずつサポートを得る事ができるようになってきたようだ。

 ポーツマス所属でスロベニア代表チームの一員としてカールスバーグカップの為に香港に来ていたスロベニア人ストライカー、ムラデン・ルドニャは川口は必ず戻ってくると力強く語った。
 「彼はイイ奴だよ。ただアンラッキーなだけさ。ディフェンスが我々の一番の弱点なんだよ。悪い時に来たものさ」ルドニャは語った。
 「ヨシが悪いわけじゃない。慣れるまでもう少し時間が必要なだけさ」ルドニャはこの経験が川口をもっとたくましく成長させる筈だと強調した。

 「彼はいつだって率直に現状を受け入れている。誰だって一番になりたいものだよ。それに今、彼が経験している事は、彼のトレーニングに対するモティベーションを上げているんだ」
 「彼は今までにないくらい厳しい練習をこなしているよ。それは彼が真にチームの一員となりたいと望んでいるからなんだ」
 「しかしうちのディフェンスには困ったものだよ。デイブ・ビーサントをまたゴールキーパーとして呼び戻したけれど、相変わらず1試合で3点、4点と取られるんだからね。ヨシのせいじゃないって事が証明されたようなもんさ」スロベニア人ストライカーはそう付け加えた。

 どんなチームであっても、チームがうまく機能する為にはゴールキーパーとディフェンダーのコミュニケーションは大切だ。ルドニャはこの点が川口の弱点の一つだと感じている。
 「彼はまだ英語がうまくないからね。でも日を追って上達しているよ。あと数ヶ月もすれば問題なくなるさ」
 「ファンには人気があるし、彼もこの町が気にいっているみたいだ。彼がピッチに戻ってくるのは時間の問題さ。我々には彼が必要なんだよ。なんと言ったってデイブ・ビーサントは42歳だからね」

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いまだ損なわれていない中田ヘの評価

2002/02/14(木)

 イタリアでプレーしているホルヘ・カバイェーロは、苦戦続きのMF中田英寿はパルマで成功する、と擁護する。
 セリエAでのパルマのライバル、ウディネーゼのDFカバイェーロは、パルマでの2シーズン目には中田は最高のプレーをファンに見せると確信しているのだ。

 「イタリアでプレーするのは大変なんだ。リーグはタフだし、良い選手もたくさんいるしね」そう語るカバイェーロは、火曜日、香港の旧正月に開催された大会の準決勝、ホンジュラス代表がワールドカップ予選を通過したスロベニアを5−1で圧倒した試合で、ディフェンスを統率したところだ。

 「昨シーズンが終わってから中田は移籍したんだけど、新しいチームに慣れるのは大変じゃないかな。チームの成績が良くないし、今シーズンだけですでに3人の監督が来てるわけだし」
 「でも、もしパルマがセリエAに残留するなら−−僕は多分残留すると思っているけれど、来シーズン、中田は実力を存分に発揮するだろうね」

 昨年夏、パルマは中田の移籍金として550億リラ(約32億円)をローマに支払ったが、中田は先発メンバーの座をフランス人のヨアン・ミクーに奪われてしまった。
 中田はパルマのカップ戦用のメンバーとなっており、セリエAの試合ではほとんどの場合ベンチスタートである。

 それでも、カバイェーロは中田への評価はいまだに損なわれていないと感じている。
「イタリアじゃあ、中田は良い選手だって、誰もが知っている。彼はスピードがあるし、テクニックもあるし、ゴールもできる」とディフェンダーであるカバイェーロは言う。 
 「イタリアでは移籍するという話もあるけど、中田はパルマでうまくやっていける、と僕は思っている」

 1998年、フランスでのワールドカップのあとペルージャに入団して、中田のイタリアでの冒険が始まった。
 ウンブリア州での1年半にわたる大活躍のあと、2001年1月に中田はローマに移籍し、昨シーズンのローマの優勝に貢献した。

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時代遅れに見える日本の移籍制度

2002/02/10(日)

 ようやく中澤佑二の移籍騒動に決着がついた。横浜F・マリノスは中澤を獲得、そして東京ヴェルディ1969は移籍金としておよそ1億7000万円を得た。

 中澤とF・マリノスにとっては希望通りの結末ではあったが、ヴェルディにとっては少なくともブラジル人ストライカー、エジムンドの年俸が移籍金によってカバーできるとは言え、若き才能あるDFはチームにとどめて置きたかったはずだ。
 それにしても日本の移籍制度は時代遅れであり、勇気あるボスマンのような人物が法廷で制度の改善を訴えたとしても不思議ではない。

 中澤の契約は1月31日迄であった。しかし契約終了と共に選手が自由に移籍できるヨーロッパと違って、彼が自由契約となる事はなかった。
 契約終了となってもクラブ側に支配下登録され、移籍するには移籍金が必要となる日本の制度は奇妙に映る。

 ただ、Jリーグがというよりも、日本のクラブは変わりつつあるようだ。例えば、鹿島アントラーズはヨーロッパのクラブからできるだけ高額の移籍金を獲得できるように、従来の単年契約ではなく、3〜4年の新しい契約をチームの若手主力選手達と結んでいる。

 一方、Jリーグは移籍について違う見方をしている。
 リーグとしては、若い頃から大事に育てあげたクラブの財産とも言うべき選手を他クラブに奪われる事のないようにクラブを保護したいと考えている。

 中澤がその良い例だ。
 埼玉出身で今月24歳になる中澤は1999年3月のデビュー以来、ずっとヴェルディでプレーしてきた。
 日本代表監督、フィリップ・トルシエはいち早く彼の才能を見抜き、代表メンバーに抜擢した。しかし、彼は先シーズンから監督の信頼を失い、11月のヨーロッパ遠征、そしてイタリア戦のメンバーからも外れた。

 中澤は、ヴェルディに残留するより代表メンバーのDF松田直樹や、右MFの波戸康広のいるマリノスに移籍した方が代表に復帰するのには有利だと感じたのだ。
 もちろん彼の年俸も移籍の理由だ。
 彼は3年、1億6000万円の契約を結んだ。これはヴェルディではとても望めない金額だ。
 彼はヴェルディでは年俸2500万円(推定)を得ていた。従って、年俸が倍増した上にヴェルディよりもより可能性の高いチームに移籍した事になる。

 移籍騒動はようやく決着を見た。しかし日本の移籍制度が抱える問題は深い。

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高原には、グッドタイミング

2002/02/07(木)

 1年間のレンタル契約の半ばで日本人ストライカー高原直泰を手放すことにしたボカ・ジュニオルスの決定は、高原にとっても、代表チームにとっても、完ぺきなタイミングであった。

 昨年の夏、Jリーグ・ファーストステージの終了後、高原がジュビロ磐田を去り、ブエノス・アイレスに移る決心をしたのには、本当に驚いた。
 ジュビロ側の情報によれば、ヨーロッパのチームからのオファーもあったが、高原が選んだのは、通常は才能豊かな選手の輸入国というよりは輸出国であるアルゼンチン。

 その当時のボカの監督カルロス・ビアンチは、契約交渉を進める前に日本代表のフランス人監督、フィリップ・トルシエにも相談をしており、高原が入ってもボカの攻撃陣は強化されないということがすぐに明らかになった。
 もっとも、高原を入団させたのは日本のファンやテレビ局から金を儲ける方策の一つに過ぎないという、辛口評論家の見解も誤りであることもわかった。バイエルン・ミュンヘンとボカが戦う、トヨタ・カップの東京遠征のメンバーにも高原は選ばれなかったからだ。

 確かに、高原のシャツを売り、ボカの若きストライカーとなった高原を東京のファンにお披露目すれば、ボカにとっては格好の商売となったはずだ。
 高原がトヨタ・カップの遠征メンバーに選ばれなかったという事実は、高原は商売の道具としてではなく、純粋にサッカー選手としての能力を買われてボカと契約したことを証明するものであり、いままでの海外移籍の流れとは違うものであった。

 ただ、気がかりなのは、高原がボカで結果を残すことができなかったことと、なにもかもがアルゼンチンの絶望的な財政状況によるものだと高原が思い込んでしまわないかということだ。
 高原は不満を口にすべきではない。トルシエも同様だ。

 少なくとも現在は、高原は慣れた環境でトレーニングすることができるし、代表候補の合宿にも参加することができる。また、3月2日のJリーグの開幕には、ペナルティー・ボックスで名人芸を発揮する中山雅史ともコンビを組むことができる。
 ボールから離れた位置で精力的に動き回る高原と独特のゴール感覚と勇気を持つ中山。コンビとして、二人は見事に機能する。

 高原は海外でのプレーを目指したものの、今回は失敗した。しかし、問題とすべきは、彼の能力の欠如ではなく、アルゼンチンへの移籍を勧めるような、ひどいアドバイスがあったことかもしれない。

 高原は今でも、ゴールするコツを知っている、強くて速い、素晴らしいストライカーである。そして日本がすべきことは、彼が帰ってきたことを祝福して、ワールドカップでフル出場できるような調子に戻っているように希望することである。
 ただし、彼が自信を失っていないかどうかはまだわからない。
 ストライカーには、これがいちばん重要な問題である。

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廣山は何処へ

2002/02/03(日)

 数ヶ月前まで、右ウィング、廣山望はワールドカップ日本代表チームの候補選手だった。今、ワールドカップへのカウントダウンが続く中、廣山と言えば…どうも彼の存在は忘れ去られたようである。
 いや… そうした意味では注目されない存在になってしまったというべきか。

 ジェフ市原からパラグアイのセロ・ポルテーニョへレンタル移籍中だった廣山は、10月初旬に行われた代表チームのヨーロッパ遠征での対セネガル戦で日本代表としてデビューした。

 パラグアイのシーズン終了後、廣山は日本に戻りクラブ側と2度に渡って長いミーティングを持った。ジェフ市原としては彼がチームに復帰し、フィリップ・トルシエにワールドカップ候補選手としてのアピールをする事を望んでいた。
 しかし24歳の廣山は日本でのプレーを拒否、海外でのプレーを続ける事、できればヨーロッパでプレーする事を望んだ。しかしどこからもオファーはなかった。

 彼のジェフ市原との契約は1月31日に切れた。しかしクラブ側は今のこの時期になっても彼の所在さえもわからないと言う。
 「我々の聞いている話では、彼はブラジルのフラメンゴでプレーする事を望んでいたらしい。新聞報道によると入国審査書類の不備があったらしい」クラブ広報担当の利渉洋一は語った。
 「どうやら彼はパラグアイに戻ってトレーニングをしながら移籍先を探しているらしい。メディアからのプレッシャーの多い日本には戻りたくないようだ」

 多くの日本人選手が海外でプレーする事を望む気持ちは理解できる。しかし廣山にとっては明らかにワールドカップでプレーするというチャンスを逃しつつある。事実道は閉ざされたと言ってもよいだろう。
 廣山がチームに復帰する意思を見せない以上、ジェフ市原もまた彼を再び迎えいれる事はないだろう。

 彼にはまた契約上の問題もある。彼の契約はJリーグと日本サッカー協会の規約に基づいているとはいうものの、契約が切れるや否や彼が自由契約選手になるという事ではない。
 ジェフ市原としては、彼がいまだ支配下登録にある以上、移籍金を獲得できる道を探すだろう。

 3年前にはスターダムへの片鱗を見せた廣山なのだが、その彼がこのまま埋もれてしまうのは残念でならない。

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