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2002年1月

フーリガンに困惑する日本

2002/01/31(木)

 最近の二つの面白い出来事により、ワールドカップでのお行儀のよろしくないファンへの対応においては、日本では困惑と誤解がトレンドになっていることがわかった。
 ワールドカップと言えば、必ずフーリガンの来襲にどう対応するかという話題になる。とくに、イングラントとドイツがどちらも1次リーグを戦うことになった日本では、この傾向が強い。

 イングランドが「死のグループ」でアルゼンチンと戦う札幌では、警察がスパイダーマンみたいな「ネットガン」をテストしている。これで乱暴なファンを一網打尽にしようというのだ。
 「乱暴をはたらく者はみんなこのネットで捕まえて、動けないようにします」と広報官が誇らしげに語る。
 「同様の物がヨーロッパでも使われていたそうですが、これはワールドカップ用に独自に開発したものです」

 想像できるかい?
 イングランド代表のエンブレムがついたTシャツを着て、少しばかりビールをきこしめして、仲良く歌っているチェルシーファンのグループが突然、身震いしながらネットガンを構えている札幌の新米警察官のターゲットになるのである。

 そりゃあ、怒るよ! ネットに反発したファンが徐々に「乱暴な」振る舞いに及ぶのが、私には想像できる。そうなるとお笑いである。
 問題は、フーリガンが存在しない日本で、浮かれ騒いでいるのと紛れもない暴力行為の違いを人々がわかっているのかということだ。
 絶対に、わかっていない。先週の土曜日埼玉で催されたイベントを見ればそれがわかるかもしれない。

 埼玉のワールドカップ委員会がボランティアのために研修会を開催し、フーリガンのように騒ぎたてる役として、5人の英会話教師が採用された。
(はっきりしているところでは、5人分のポストに18人の英語教師が応募して、推測するところでは、英語教師が普段絶対やらない仕事に対して時間給が支払われた。ひどく振る舞うことで収入を得たのであるが、これはそれほど特殊なことでもない。だって、マイク・タイソンはこれで巨万の富を得ているじゃないか!)

 この研修会の目的は、ボランティアたちにイギリスのサッカー文化とはどのようなものであるかを示すとともに、勝利を祝う威勢のいいファンと暴徒化しつつあるファンの違いをボランティアが理解し、見分けられるようにすることであった。
 まあ、この研修ではなにもかもがめでたし、めでたしと解決しましたとさ。ボランティアとファン役が一緒になってEuro96のテーマ曲をコーラスしたんだから。「帰ってきたよ、帰ってきたよ、・・・フットボールが帰ってきたよ」
 おいおい!

 日本での試合のチケットを入手できなかったファンも、ストリートで展開されるもうひとつの楽しいショーは見ることができるかもしれない。
 ただし、ネットには注意しよう!

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京都はエンゲルスの安住の地となるか?

2002/01/27(日)

 ドイツ人監督、ゲルト・エンゲルスほどJリーグでの浮き沈みを経験してきたコーチはいないだろう。
 彼が今何よりも望んでいるのは、J1への復帰を果たした京都パープルサンガがJ1に定着できる事、そして彼自身の身分が安定する事だろう。

 パープルサンガは昨シーズンJ2で初優勝を果たし、3月2日のシーズン開幕とともに、華やかなJ1の舞台に再び戻ってくる。
 シーズンの目標を問われたエンゲルスはこう答えた。「難しい質問だね。我々の目標は数年にわたって強いと言われるチームを作る事だからね」
 「J1に定着できるチーム作りを目指したい。しかしその為には2、3年はチームの確固たる地盤作りをしなければならないだろうな。その上で、リーグのトップチームを目指さなければならないのだが、もちろんこれは一朝一夕でできる事じゃない」

 エンゲルスはJリーグの発足した1993年、横浜フリューゲルスのコーチングスタッフとしてチームに在籍した。しかし、1998年、チームのメインスポンサーの撤退によってチームは解散を余儀なくされた。
 他のフリューゲルスの選手同様、エンゲルスもチームの消滅という苦痛を味わった。しかし、チーム最後の試合となった1999年の天皇杯で優勝を果たし、サポーター達と感動的な惜別の涙を交わした。
 フリューゲルスの選手達が、横浜マリノス等の他チームに移籍していったように、エンゲルスもジェフ市原に移籍したが、数ヶ月で解雇されてしまった。

 その後、彼は京都パープルサンガにアシスタントコーチとして雇われ、そして監督を引き受けたのは、チーム力の低下によってJ1からの降格の危機に陥ったまさにその時であった。
 2000年の彼はパープルサンガ同様辛抱の1年だったが、昨年チームを見事にJ2チャンピオンに導いた。

 昨シーズン終了後、チームはベテランDFの大嶽直人を解雇、しかしエンゲルスはチームの得点源である黒部光昭を始め、チームにとって必要な人材は一人残らず確保したと語った。
 黒部についてエンゲルスは、「プロ選手として2年目のシーズンにも関わらず、彼は30得点をあげチームに大きく貢献してくれた。彼はパープルサンガ入団1年目に多少なりともJ1の経験があるとは言うものの、J2とJ1の実力差はやはり大きいからね。チームの得点源として、当然他のチームは彼を警戒し、マークも厳しくなるだろうし、なによりJ1はディフェンス自体も厳しいからね」
 リーグでの浮き沈みを誰よりも経験してきたエンゲルスにとって、2002年のチーム安定の鍵を握る黒部の得点に寄せる期待は大きい。

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中村俊輔の“リアル”なレアルの夢

2002/01/24(木)

 こんな攻撃陣はいかかですか? フィーゴ、ジダン、ラウール、モリエンテスときて、・・・中村というのは?
 本当なんでしょうか?
 かの強豪レアル・マドリードが、日本では堕ちた英雄となってしまった、中村俊輔を本当に欲しいのだろうか?

 いろいろと見たかぎりでは、イエスである。レアルは本当に中村を欲しがっている。そして、若きレフティーは今夏のワールドカップ後に横浜F・マリノスを去り、サンティアゴ・ベルナベウを目指すようだ。
 23歳の中村がワールドカップでプレーするかどうかは関係ない。とは言っても、中村にとって2001年は散々だった。代表チームでレギュラーをとれないばかりか、長らくは代表にも選ばれなくなってしまった。

 しかし、レアルのゼネラル・マネージャーであるホルヘ・バルダーノは左利きの中村にかなり前から注目していたし、2年前には、セットプレーのスペシャリストである中村は獲得リストに含まれている、と明言していた。
 2000年のJリーグMVPである中村を評価している、元アルゼンチン代表のワールドカップ・ウィナーは彼だけではない。前横浜FM監督である、オジー・アルディレスはつねづね、中村のような若いプレーヤーはヨーロッパの高いレベルを経験するべきだと主張していた。

 ただし、レアル自体の動機は財政的なものである。レアルは世界規模のファン層を魅力ある市場である日本にまで拡大したいのである。
 1メートル78センチ、69キロという中村の体格では、ヨーロッパのトップクラスのスピード、パワーに吹っ飛ばされてしまうかもしれない。フリーキックは素晴らしい。それは、確かだ。しかし、その点に関してはフィーゴだって、ジダンだってそうだし、ロベルト・カルロスはわざわざ言うまでもない。

 中村はレアル・マドリードに入るのか?
 計算に合わないように見えるが、レアルのフロレンティーノ・ペレス会長にとってはそうではないようだ。
 中村は向上心が強い、感じの良い好青年で、いわゆるスターをこきおろすのをなによりも好む代表監督フィリップ・トルシエのやり方にはしばしば困惑していた。

 レアルが明らかにしているところでは、中村とまず契約を交わしてから、スペインの他のクラブ等にレンタル移籍させ、中村が徐々に適応できるようにするそうだ。
 これはこれで、いい方法かもしれない。しかし、フィーゴ、ジダン、ラウール、モリエンテス、そして中村という「ドリーム・チーム」は、まさに文字通りのものだし、日本のファンの夢でもあるだろう。

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岡野会長とトルシエ監督、それぞれの後任人事

2002/01/19(土)

 2002年のワールドカップ後に、70歳になる日本サッカー協会会長、岡野俊一郎氏は引退するにあたって、次の日本代表監督人事について次期会長への助言と援助を惜しまないと語った。
 岡野氏の後任はまだ決まってはいないが、後任が誰であれトルシエの後任を選ぶという大役が待ち受けている。
 1998年に日本代表監督に就任したトルシエだが、彼は既にワールドカップ後に日本代表監督を辞任する意向を明らかにしている。

 後任の代表監督選出について岡野氏は、「後任人事については引退する私は何も言うべき立場にないが、次の会長が望むのであれば、喜んで助言はさせていただく」また、「とは言うものの、まずは技術委員会の判断が中心となるだろう」と語った。
 技術委員会では最終候補者のリストを検討し、このまま外国人監督に依頼するのか、また、日本人監督に戻すのか決断することになる。

 協会には岡野氏の後任として一番有力と見られているJリーグチェアマンの川淵三郎氏をはじめ、小倉純二氏、森建兒氏、そして釜本邦茂氏の4人の副会長がいるが、過去には痛烈なトルシエ批判の先鋒であった川淵氏と釜本氏のどちらかが会長に選出されたとしたら当初は無難に日本人監督を選出する道を選ぶだろう。

 トルシエが代表監督に就任した当初、彼は人事を始めチームを根本から改造しはじめ、代表チームが発展途上の1999年には7試合の国際試合に未勝利という我慢の年を味わった。協会がトルシエ批判で揺れたその年ですら、岡野氏は孤軍トルシエを擁護し続けた。そして、彼の擁護はこの18ヶ月でようやく実を結んだと言えるだろう。

 岡野氏は会長選の日程についてはまだ未定であると語ったが、その日は確実に近づいてきている。
 また、トルシエについても彼が日本を去る事についてはまったく驚いてないと語った。
「もともと彼とはワールドカップまでの契約であったし、トルシエとは契約延長について一度も話し合った事はない」また、「ワールドカップ後に、代表監督が辞任するというのはワールドカップに出場するという任務を達成した監督にとって極めて当たり前の話だ」と岡野氏は語った。

 現時点では代表監督候補は、前代表監督の岡田武史氏、1998フランスワールドカップ優勝監督のエメ・ジャッケ氏、そして、現韓国代表監督のフース・ヒディンク氏の3人だ。

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トップチームの試合に出ていないことへの不安

2002/01/17(木)

Jリーグのトップ・プレーヤー達が今年最初の代表候補合宿に準備を進めている一方で、監督であるフィリップ・トルシエは合宿に参加しない選手達への懸念を深めていることだろう。
 つまり、海外でプレーしている、高原直泰や稲本潤一のことだ。
 2人は昨年Jリーグをあとにした。ストライカーの高原はジュビロ磐田からボカ・ジュニオルスに入団し、ミッドフィルダーの稲本はガンバ大阪からアーセナルに移った。

 とは言っても、2人の姿はトップチームのゲームではほとんどお目にかかれず、ワールドカップまで残り5カ月もない現在では、トルシエにとっては不安の種にちがいない。
 稲本と高原は、トルシエが世代交替させた日本代表チームの代表的な存在である。トルシエにより、2人はユース代表からオリンピック代表を経て、A代表に抜擢されたのである。

 数か月前までは、2人は文句なくワールドカップの日本代表選手であった。しかし、現在では試合に臨む準備ができているかどうかが疑問であるし、なにより新しいクラブで認知してもらおうと懸命な2人が自信を維持できているかどうかもわからない。
 トルシエは、Jリーグで試合に出ている選手よりは、たとえ毎日トレーニングしているだけでも海外のクラブにいる選手を選ぶと口外しているものの、高原も稲本も昨年10月の代表のヨーロッパ遠征では絶好調からはほど遠い状態であった。

 韓国でトルシエと同じような立場にある、オランダ人のフース・ヒディンク監督はまったく異なった意見の持ち主である。ヒディンクは、選手がどこのチームのベンチを暖めているかには関心を払わない。つまり、どこであれ自分の所属するクラブのトップチームでレギュラーを張れない選手は、代表チームの先発に入る可能性も少なくなるということだ。

 代表チームのストライカー、西澤明訓はすでにボルトン・ワンダラーズを去り、日本に戻ってしまった。トルシエは、たとえ小さなクラブへのレンタル移籍であっても稲本、高原にとっては幸いである、と考えていることだろう。
 その他の海外組の日本人選手では、ゴールキーパーの川口能活は苦労しながら経験を積んでおり、中田英寿は一貫してプロフェッショナルであり続け、パルマの苦境にも動じる気配はない。

 フランスの伝説的プレーヤー、ミシェル・プラティニは逆境の中田に対して別の見方をしている。
 「毎週クラブでプレーしていないのなら、ワールドカップは万全でフレッシュな状態でプレーできるだろう」とかつてのユベントスのキャプテンは言う。
 ワールドカップが近づくなか、トルシエも同じフランス人であるプラティニほどポジティブでいられんことを。

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西澤の移籍で明らかになった問題点

2002/01/13(日)

 西澤明訓がプレミアリーグで成功できなかった事実は、彼をよく知る者にとっては最初からわかりきっていた事ではあった。
 ただ、残念な事にそれに気づかなかったボルトン・ワンダラーズは大きな代償を支払う事となった。

 一方、西澤は来シーズン、J2のセレッソ大阪に戻り、森島寛晃と再びコンビを組む。思えば昨年の8月、西澤がボルトンにレンタル移籍をした際のボルトンのコメントに多くのサッカー関係者は驚かされた。
 ボルトンの監督、サム・アラダイスは西澤の日本代表としての国際経験と、スペインリーグのエスパニョールでのプレーについて述べたものの、実際にはビデオで見ただけだと認めた。ましてや、西澤が充分な働きができなかった事については知る由もなかっただろう。

 マーケティング担当者は西澤の日本での人気の高さに注目したようだが、それは他の海外でプレーする日本人選手、中田英寿、稲本潤一、そして川口能活に遠く及ばないものだ。そしてボルトン・イブニング・ニュースでさえ西澤の事をクラブにとって金の卵を生む鶏として紹介していた。
 仮にボルトンの狙いがシャツの売り上げ、テレビの放映権、そしてその他諸々の副産物に期待していたのだとしたら、彼らの期待は大きく外れたという事だろう。いや、彼らこそこの契約での一番の敗者だ。

 西澤にとって最大の問題点は、皮肉にも彼が2000年の6月の対フランス戦、2−2の引き分けの試合で決めた素晴らしいゴールにある。フランスと言えば、1998年ワールドカップ優勝に加えて、ユーロ2000のタイトルも手中にした世界最強チームだ。
 そのフランス相手に、左サイドから三浦淳宏が敵陣深くにクロスを上げ、ボールに合わせて走りこんだ西澤が右足ボレーをたたき込んだのだ。ボールは呆然とするファビアン・バルテズの守るゴールの隅に吸い込まれた。

 それはまさに素晴らしいシュートだった。もしワールドカップ中でのシュートであったなら、それこそテレビで何度も何度もリプレイを見るようなシュートだった。
 セレッソでも西澤はいくつもの素晴らしいゴールを決めている。そして、代理人達にとって、西澤のゴールシーンを集めたビデオを作る事は西澤を売り込む為には当然な事である。
 エスパニョールもボルトンも悪く言えばそれに引っかかったのだ。但し、彼らは西澤の技術的、そして精神的な欠陥に気づくのも早かった。

 そんな中、唯一西澤を買っている人物がいる。それは日本代表監督のフィリップ・トルシエだ。トルシエは西澤の練習態度に我慢できず、1998年ワールドカップ代表メンバーから外した岡田武史前監督と違って、1月21日からの鹿児島でのキャンプで彼にチャンスを与える。

 西澤には、彼の名前だけが海外で一人歩きしている事について何の責任もない。そしてもちろん、彼が海外での評判通りの選手でない事も彼の責任ではないのだ。
 じゃあ。誰の責任なのか…。ジャパンマネーでの一稼ぎをもくろむヨーロッパのチームの責任だろう。
 この不幸な問題点から皆が何かを学ぶ事を望んでやまない。

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トルシエと三都主

2002/01/10(木)

 Jリーグのスターになることと、フィリップ・トルシエの関心を得ることはまったく別の問題である。
 この問題に直面しているのは、ブラジルから日本に帰化した、清水エスパルスの左ウイング、三都主アレサンドロである。

 24歳である彼の能力に疑いの余地はない。1997年にエスパルスに入団して以来、一貫して勝利に貢献する働きを見せてきた。
 1999年、エスパルスがセカンド・ステージで優勝し、チャンピオンシップではPK戦の末ジュビロ磐田に敗れた年には、彼はJリーグのMVPにも輝いた。
 彼は一人の才能豊かな選手である。ゴールを決めることもできるし、アシストもできる。スピード、ボール・コントロール、ドリブルはつねに脅威である。

 しかし、同じように才能豊かな中田英寿が辟易しているように、トルシエはチームの一員として適応できない選手には関心を示さない。
 三都主がなおも全力でしなければならないのは、この面でのアピールである。
 トルシエは、それを証明するチャンスは与えてくれる。鹿児島で2週間にわたって行われる、2002年の最初の代表候補合宿に三都主を招集したからだ。

 三都主は、1994年、高知の明徳義塾高校でプレーするためにブラジルから日本に渡り、昨年11月に日本国籍を獲得した。
 とはいえ、これで自動的にトルシエの最終選考枠の23人に入ったことにはならない。一方、1998年9月の代表監督就任以来の3年間ともに仕事をしてきた選手達にフランス人の監督が義理を感じるということもありえない。

 トルシエはすでに、ワールドカップ後に日本を去ることを明らかにしている。必要なのは、今年の夏に結果を出すことだ。
 新参の三都主が、たとえば中村俊輔や本山雅志からポジションを奪ったとしても、それはトルシエが単に最強のチーム作りを目指したからにすぎない。

 結局、三都主に日本国籍を取らせたのはトルシエではないわけだし、トルシエがしなければならないのは、自らの裁量で最高の選手を選考することなのである。
 1月10日、トルシエは年末年始の休暇から戻り、1月21日からの合宿の計画を練り始める。

 三都主がすべきことは、Jリーグで培った実力を余すところなく発揮するだけでなく、むしろ過剰なくらいのアピールで、2002年ワールドカップでの自分の役割をあらためてトルシエに認識させることである。

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トルシエの決断

2002/01/06(日)

今年のワールドカップ後にトルシエが日本を離れる事はもう間違いないと言って良いようだ。
 いや、それよりも未だに彼が日本に居る事の方が大きな驚きかもしれない。今年の夏に彼の契約は切れるが、1998年9月に就任して以来、4年にわたって日本に居る事になる。
 日本代表監督に就任する前のトルシエはアフリカの数カ国で10年間のコーチング歴を持ち、数々の好成績を挙げ、白い魔術師と呼ばれる気性の激しいコーチであるといった以外あまり知名度はなかった。
 東京で行われた彼の最初の記者会見でトルシエは、彼の2年契約について満足していると述べていた。すなわちそれは、長期の契約を望んでいなかったに他ならない。

 彼は代表チームの建て直しを図るにあたって、ユースチームとオリンピック代表チームの強化をまず始めた。
 1999年までの結果はおおむね良好で、数人のプレーヤーは順調に成長し、日本代表チームに入るまでの成長を見せた。しかし、代表レベルでは結果を残す事がまったくできなかった。その年に行われた7試合の国際マッチに1勝もする事ができなかったのだ。
 その間、トルシエはよく日本サッカー協会の柔軟性を欠く姿勢や、洞察力のなさを批判していた。一方、周囲が彼を批判し続ける中で、会長の岡野俊一郎のみがトルシエを擁護し続けていた。

 2000年に入ると、ようやくトルシエの指導が代表レベルで結果を出すようになって来た。10月にはアジアカップで優勝し、昨年の6月にはコンフェデレーションカップでの準優勝を果たした。
 レバノンで行われたアジアカップでトルシエは、日本がレベルアップする為に新しいコーチが必要になるだろうと話していた。トルシエには自分自身が若いチームの将来を見据え育てる事が一番適しているとわかっていたのだ。

 そういった意味では、一時は世界でもトップレベルだったにも関わらず、今回のワールドカップ出場権を逃したスコットランド代表チームがトルシエを熱心に監督として迎えようとしている事は当然の事だろう。
 同時に、スコットランド代表監督の地位はトルシエにとっても魅力的だ。なぜなら、トルシエがよく口にする日本に欠けているもの、すなわちサッカーの文化と伝統、そしてサッカーのレベルの高さを持つヨーロッパで彼の手腕を発揮する事ができるからだ。

 5ヶ月後、トルシエは日本から去る。そして、彼が去った後の日本サッカー界はまったく違ったものになるだろう。

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歴史を刻んだバロン

2002/01/03(木)

 元旦、東京国立競技場での白熱の決勝戦。延長の末セレッソ大阪を3−2で破った清水エスパルスにとっては、まさに天皇杯での3度目の正直だった。
 エスパルスは近年、決勝戦で2度の敗北を喫していた。3年前の横浜フリューゲルス戦と昨年の鹿島アントラーズ戦だ。最後の11分間にセレッソが2得点を挙げ、試合がVゴール方式の延長戦に入ったときには、2度あることは3度あるといった危惧を抱いたことだろう。

 しかし、エスパルスは立ち直り、延長前半の7分、ブラジル人ストライカー、バロンの決勝ゴールにより勝利をものにした。
 このゴールを演出したのは、エスパルスの左ウイングであり、2002年のワールドカップでプレーするチャンスを得るために日本国籍を取得したばかりの三都主(アレックス)だった。 1999年のJリーグMVPは左サイドを突破し、横山貴之とのワンツーから、ファー・ポストのバロンにクロス。最初のシュートはセレッソのキーパー、下川誠吾にブロックされたものの、バロンの2度目のシュートはゴールに。

 セレッソにとっては、非情なシーズンの幕切れとなった。リーグ戦を3試合残した時点で降格が決定してしまったセレッソは、失望から立ち直り、日本版FAカップとも言うべき天皇杯の決勝戦に進出してきたのだった。
 トロフィーを受け、日本サッカーにゆかりの深いスタジアムをほぼ満員にした46,728人の観客の前を一周したあと、ようやくエスパルスの選手達は新年を祝うことができたのである。

 「うん、どちらにも勝つチャンスはあった。ただ、幸運にも我々が延長でゴールすることができたということだ」とは、勝利の立役者バロン。
 「延長が始まる前、(ゼムノヴィッチ)監督に、同点にされたけどまだ勝てる、って言われた。うちのほうが良いチームなんだから、さっさと決めて来いって」

 エスパルスは素晴らしい立ち上がりを見せた。三都主が20分に、キャプテンの森岡隆三が68分に得点したときには、結果は明らかだと思えた。
 だが、セレッソはリーグ戦とは違い闘争心をあらわにした。79分には森島寛晃の近距離からのシュートで1点を返す。
 終了間際には、交替で入った大久保嘉人がペナルティー・エリア内でルーズボールを奪いに行き、エスパルスのキーパー黒河貴矢に倒される。韓国人ミッドフィルダー、尹晶煥(ユン・ジョンファン)が落ち着いてペナルティー・キックを決め、2対2に追いつき、ゲームは延長戦を迎えた。

 しかし、エスパルスにはもう最後のハードルにつまづくつもりはなかった。そして、かつてのジェフのストライカー、バロンはエスパルスでの最初のシーズンを見事なタイトルで締めくくったのである。

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