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2001年12月

変わらなければいけない天皇杯

2001/12/30(日)

 天皇杯とは本当に真の王者を決める為の物なのか、それともそろそろ再編を考えなければならない物なのだろうか…。
 もちろん、それは前者であるべきなのは間違いないが、この12月の大会を見ているとどうも後者のように思えてならない。

 今年で81回目を迎える日本サッカー協会の最大イベント、天皇杯はイングランドより贈られたトロフィーをめぐって毎年行われる。
 しかし、日本の天皇杯と本家イングランドのFA杯が似ているのはその1点だけだ。イングランドのFA杯は全英はもちろん世界中からショックと驚き、そして熱い情熱をもって注目を浴びる。

 一方天皇杯はどうだろう?
 どうやら誰もあまり気にしていないようだ… 出場するチームでさえも…
 長いリーグ戦が終わった後、全国で行われる予選を勝ち抜いて各県から1回戦を闘う為にチームが集まる。
 所謂トップチームと呼ばれるチームはイングランドと同様、3回戦からの参戦となるが、大学チームと対戦する事も珍しくない。

 今年は16のJ1チームのうち、6チームが3回戦で早々と敗退した。それを誰もが悔しがるでもなく、選手自身でさえも早めのクリスマスと正月休みで、来シーズンのトレーニングが始まる1月中旬までの良い骨休めだと考えているらしい。
 Jリーグ以外からは、佐川急便がただ1チームが4回戦に進出した。彼らの4回戦の対戦相手は来季からJ2落ちするセレッソ大阪で、アマチュアチームがベスト8入りする可能性もあると思われた。

 果たして全国のサッカーファンはアマチュアチームの快進撃への期待に胸を躍らせただろうか?
 否である。 名古屋近郊の豊田スタジアムで行われた試合にはたった2,042人しか集まらなかったのだ。 この集客の悪さが天皇杯のもう一つの問題点だ。

 1回戦から決勝までのスケジュールは天皇杯の始まる前には決められ、会場もサッカーをより宣伝する為に全国で行われる。
 それぞれのラウンド後の抽選も行われる事なく、イングランドのように、マンチェスター・ユナイテッドか、マンスフィールド・タウン?会場はオールド・トラッフォードかフィールドミル?と、テレビやラジオの前で次の対戦相手がどこかと息を呑むファンの姿もない。

 日本のそうしたトーナメント組み合わせの方法は時として奇妙な状況を生む。2〜3年前だっただろうか、ヴェルディとフロンターレの間で行われた初の川崎決戦はなんと遠く離れた熊本で行われたのだ。
(偶然にも、彼らは今年の準々決勝で対戦、東京スタジアムで行われたにも関わらず、収容人員の50,000人に対して観客数はたった8,000人だった。)

 また、今年の準決勝の浦和レッズはホームスタジアムの埼玉スタジアムでセレッソ大阪と対戦した。日本サッカー界の頂点を決める大会でこうした会場選定が行われていいものだろうか。

 唯一天皇杯が救われているのは、決勝が1月1日に行われている事だろうか。1月1日は日本のスポーツ界にとって最も重要な日だ。だからといって天皇杯がもっと注目され、もっと意味のある大会になるよう、一から見直す必要がある事には変わらない。
 なんと言ったって、別の皇室行事が皇居で行われる為、天皇陛下のお出ましもないではないか。

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ブラジル人選手からの悪しき影響

2001/12/27(木)

 3人いるブラジル人選手のうち2人しか出場しなかったものの、浦和レッズは24日の天皇杯準々決勝でジェフ・ユナイテッド市原を2−1で破った。
 抜群のスピードを持つストライカー、エメルソンが母親の看病のためにブラジルに帰ったが、トゥットと新たに獲得したアリソンがジェフに立ち向かった。

 2人ともゴールはなかったものの、試合には多大の影響を及ぼした。
 良い影響もあった。たとえば、右足のアウトサイドでのアリソンの絶妙のパス。あるいは、トゥットのボール・キープ力もそうだ。しかし、悪しき影響のほうがずっと多かった。

 ジェフが前半戦を支配すると、ブラジル人の監督ピッタが指揮する浦和のプレイはおなじみのパターンに陥ってしまった。
 アリソンが中盤でボールをもらうと、前に突破。それから、相手がほとんど触れてもいないのに大げさにひっくり返る。

 アリソンは苦悶の表情でピッチ上を転げ回る。コンパクトな仙台スタジアムでは、アリソンのわめき声が観客席のざわめきを通しても聞こえてくるほどだ。そして、トゥットが主審の布施直次に駆け寄り、カードを出すように要求する。
 ほんとに後味の悪い光景だった。日本のプロ・サッカー・リーグはすでに9年目のシーズンを終えており、こういう行為はもはやまったく意味をなさない。


 ジェフもまったく責任がないとは言えないだろう。キャプテンの長谷部茂利が開始早々、タックルでひどく負傷したように装い、悪しき前例を作ってしまったからだ。
 足首を抱えて長谷部はグラウンドに倒れていたが、FIFA審判員である布施が無視すると、すくっと立ち上がり、すぐにボールを追いかけ始めた。「負傷」は、奇跡的に数秒で治ったのである。

 ただし、アリソンの場合にはまさに正義の鉄槌が下された。ボスニア人のミッドフィルダー、エディン・ムイチンが34分にゴールしたときのことだ。
 中盤でボールを奪われたアリソンは、なんとなんと、倒れ込み、ありもしないファールをアピールしたのである。
 守備に戻ってチームメートを助ける代わりに、アリソンは主審を欺こうとしたのである。彼がピッチに寝転がってスネている間に、前線ではムイチンがジェフのゴールをあげていた。

 エメルソンが出ていたら、ファンは同様の行為をもっとたくさん見せられたかもしれない。敏捷さをもつエメルソンこそが達人であり、勝負できる状況でもフリーキック、ペナルティー・キックを勝ち取ってしまうのである。
 これは日本での危惧すべき傾向であり、浦和のブラジル人選手達はかかる悪病の感染に多大な影響を及ぼしている。


 レッズ・ファンはこの国では最高のファンであり、29日に埼玉スタジアムでプレイされるセレッソ大阪との準決勝を楽しみにしていることだろう。
 しかし、できるものならば、トゥットとアリソンには各試合の前に持ち込まれるフェア・プレイ・フラッグに対する自分たちの責任を認識してもらい、母国の誇りであり、伝統であるサッカーの良い面を見せてもらいたいものである。

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小笠原の歓喜と名良橋の憂鬱

2001/12/23(日)

 鹿島アントラーズのサポーター達は、フィリップ・トルシエが金曜日に発表した来年1月の代表チームのトレーニングキャンプに参加する40人のメンバーリストを複雑な思いで見た事だろう。
 2000年、2001年の連続優勝の立役者である22歳の小笠原満男がミッドフィルダーの一人に選ばれたのを始め、他にもGK曽ヶ端準、DF秋田豊、代表チームでは左のDFの中田浩二、攻撃的MF本山雅志、FW鈴木隆行と柳沢敦の6人がアントラーズから選出された。

 アントラーズのブラジル人監督トニーニョ・セレーゾをはじめ多くの人がJリーグ随一の右サイドプレーヤーであると考え、フランスワールドカップの時には岡田武史前代表監督のチームの要だった名良橋晃は今回もトルシエの目にとまる事はなかった。
 来年のワールドカップに向けて俄然周囲が熱気を帯びてくるなか、名良橋は2001年のベストイレブンに選ばれた9人の日本人選手のなかでたった一人代表キャンプメンバーに選ばれなかったのだ。


 多くの人にとって、トルシエが何故アグレッシブなタックラーであり、休むことなく勇猛果敢に右サイドをかけ続ける30歳の名良橋を無視し続けるのか不思議だろう。
 1998年9月に代表チームの監督を引き継いで以来、トルシエは3−5−2システムを採用した。そしてそのシステムにとって、名良橋は最適な右サイドMFだと言うのが大勢の意見だと思う。

 しかし、トルシエの目には指示を守らない、攻撃体制が崩れた時に見せるポジショニングのまずさ、そして自陣のゴールに近い時に見せる判断のまずさによって味方ディフェンスに不必要なプレッシャーを与える等としか映っていない。
 Jリーグのリーグ戦ではそうした批判を受ける事のない名良橋だが、やはり代表レベルでは冷酷なまでに判断されてしまう。そしてトルシエも甘く見るつもりはない。

 トルシエがいつも重要視するのはチームワークと規律であって、彼の戦術とフォーメーションの中では、名良橋を使うのは彼の長所を考えてもそれを上回るリスクがあると考えているに違いない。
 しかし、トルシエのそれなりの理由も、常に全力でプレーする名良橋にとっては慰めにはならないだろうし、またサポーターにとっては残念な事に違いない。


 一方、1999年にナイジェリアで行われたワールドユースの決勝でスペインと闘ったU−20代表チームでトルシエの目にとまった小笠原も、良い選手がひしめくミッドフィルダーの中では、昨年のシドニー五輪の代表メンバーの座を勝ち取る力はまだなかった。
 しかし今季、彼はめざましい成長を遂げ、チームにヴェルディ川崎で2回そして、1997年の移籍以来アントラーズで3回のリーグ優勝を経験したベテランブラジル人選手ビスマルクの契約を更新しない事を決断させた。

 小笠原をはじめ、彼のチームメイト達が来年のワールドカップでプレーする事を夢見ている一方、名良橋はどうしてこんな事になってしまったのか当惑している事だろう。

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意気消沈のジェフ・ファンの希望

2001/12/19(水)

 ジェフ・ユナイテッド市原のサポーターは、華やいだ気分でシーズンの終盤を迎えてもよかった。
 なんと言っても、毎年降格争いに加わっていたチームが、終わったばかりのJリーグの総合順位でチャンピオンである鹿島アントラーズやジュビロ磐田に次ぐ3位という、堂々たる成績を残したのである。

 だが、選手も、関係者も、ファンも、一様にショックを受けていた。スロベニア人の監督ズデンコ・ベルデニックがクラブを去り、来年は名古屋グランパス・エイトで指揮をとることが明らかになったからだ。

 さらに、Jリーグ・アウォードの夜、クラブはあらゆるカテゴリーで落選してしまった。
 韓国人ストライカー、崔龍洙(チェ・ヨンス)はデビューのシーズンで21ゴールをあげ、年間最優秀選手の候補となっていたし、スロベニア人のセンターバック、ゼリコ・ミリノビッチも素晴らしい働きを見せたので、ベスト・イレブンの候補になっていた。

 しかし、二人ともベスト・イレブンには選出されず、アントラーズ勢とジュビロ勢にほとんどのポジションを占められてしまった。また、ベルデニックの監督としての立派な功績も、報われなかった。

 それでも、ジェフの暗いトンネルの先にも光は見え始めている。ワールドカップにも出場する28歳のストライカー、崔が新たな、より好条件の契約にサインし、来年もジェフでプレーする意向があるからだ。

 クラブの広報、利渉洋一は、こう言う。「崔は素晴らしい結果を残したし、ファンにも人気があるので、残って欲しいと思っています。
 「ただ、韓国にいる崔のマネージャーによると、ドイツのブンデスリーガの3つのチームが彼との契約に興味を示しているそうです。まだ、社長には正式なオファーは届いていませんが。
 「来年分の提示はすでに行っていますし、崔も契約内容を検討しているところです。たいした問題はないでしょう。彼が残ってくれると、確信しています」

 崔が契約を更新すれば、ジェフのファンを元気づける格好の材料となるだろう。さらに利渉は、ミリノビッチも契約の更新に同意したことも明らかにした。

 指揮の面では、ベルデニックはグランパス入団発表後にスロベニアに帰国してしまった。シーズン最後を飾る天皇杯でチームの指揮をとる意欲はないだろうというのが、クラブの考えである。
 ベルデニックのアシスタント、神戸清雄が監督代行に昇進し、ジェフを12月24日の準々決勝に導いた。次は、仙台での浦和レッズ戦である。

 利渉はまた、ヨーロッパの監督との交渉は進展しており、今週末にも正式に発表する意向であることを明らかにした。

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ピッチを去るモットラム

2001/12/16(日)

 鹿島アントラーズの小笠原満男の素晴らしいフリーキックがジュビロ磐田のゴールネットを揺らし、ジュビロ磐田のシーズンが終わった。
 そしてそれは、レスリー・モットラムの主審としてのキャリアが終わった瞬間でもあった。

 50才のスコットランド人主審は試合終了後、静かにホイッスルを置いた。しかし彼は来年1月にまた日本に戻ってくる。今度は日本サッカー協会のチーフインストラクターとして新たに3年の契約を結んだのだ。

 設立して9年を経たJリーグの審判技術向上の為、彼は約70人もの主審、副審、そしてレフリーインスペクターと共に働く事になる。モットラムはイエローカード、レッドカードを出す事について、いささかもためらわない事で有名だが、それは他の審判にとって色々な場面で良い手本となった筈である。

 1994年のアメリカワールドカップ、そして1996年のイングランドで行われたヨーロッパ選手権で審判を務め同年、彼は日本にやってきた。彼が他の主審に比べて優れているのは選手が本当に負傷したのかどうか的確な判断を下せる事である。

 Jリーグでは、選手達がファール欲しさにグズグズとピッチに倒れ込んでいるシーンによくお目にかかる。日本人の主審が選手達の芝居がかった仕草にプレーを止め、救護員をすぐピッチに呼び入れるのと対照的に、モットラムは毅然として彼らに立ち上がってプレーを続ける事を促す。そうすると、選手たちはバツが悪そうにしながらも芝居を続けるが、突然全速力で駆け出すのだ。
 モットラムの今後の一大使命は、ダイビングがゲームに与える悪影響を認識させる事のみならず、こうした不愉快なプレーに対する対処法を日本人の審判に教えていく事だ。

 「日本人の審判は僕なんかよりずっとルールには詳しいさ。ルールブックの一語一語しっかりね。」モットラムは言う。
 「ただルールを知っている事と、それを実際に試合で適用する事は違う事なんだ。ルール通りに審判する事は難しいよ。時にはルールよりも自分の判断を優先する勇気も必要なんだ。」いついかなる時もゲームに対する感覚、サッカー精神に対する感覚、そして試合状況に対する感覚を持ち続ける事が主審として最も必要であると彼は言う。

 「僕が思うに、日本人の審判が一番苦手としているのが選手達の扱い方だ。ただそれは一朝一夕には身につくものではない。徐々に身につけていくしかないんだよ。」
 「ヨーロッパでは審判も選手達もまずお互いを知ろうとするんだ。けれども、日本人の選手にとっては週によってまた、主審によって判定が変わるようでは混乱するばかりなんだろうね。」  Jリーグで4度の年間優秀主審賞の受賞者であるモットラムにとって、今日の試合には審判の目を誤魔化して、手っ取り早くヒーローになろうとする選手があまりにも多すぎる。

 「フェアプレー?」彼は言葉を続けて、「そんなものは国際サッカー連盟のフェアプレーフラッグにしかないのさ。プロの世界ではフェアプレーからかけ離れた行為は多いし、すぐにそういう状況が変わるとは思えないね。」
 来月にもその状況を変えるべく日本での彼の新しい使命が始まる。

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トニーニョ・セレーゾは今でも特別な存在

2001/12/13(木)

 トニーニョ・セレーゾが語ると、人々は耳を傾ける。そして、トニーニョ・セレーゾが踊ると、人々は喝采する。
 ショーがストップした瞬間。月曜日、横浜アリーナ、きらびやかなJリーグ・アウォーズの夜。

 鹿島アントラーズを率いるブラジル人監督は2年連続でチームをリーグ・チャンピオンの座に導いた功績により、ステージで年度優勝監督賞を受けることになっていた。

 赤じゅうたんの階段からステージにあがったとき、トニーニョは突然阿波踊りをはじめ、列席の著名人やJ−ポップのスターに贈るような歓声をあげていた約2千人の女性ファンらの称賛を浴びた。
 「サンフレッチェの藤本に習ったんだ」トニーニョは、広島の藤本主税のゴール後のパフォーマンスを引き合いに出した。

 爆笑が静まると、トニーニョは語った。技術、戦術、ファン・サポートの各方面における、ここ10年間のJリーグの進歩に驚いている、と。
 「こんなことは、世界のどこでも見たことありません」1982年ワールドカップ・スペイン大会で、ジーコ、ファルカン、ソクラテスとともにブラジル代表の豪華絢爛たる中盤の一員であった、トニーニョの言葉だ。

 彼ら4人は、ブラジルでは「黄金のカルテット」として知られていたが、トニーニョ自身も、ベスト・イレブンに選ばれた、中田浩二、小笠原満男、柳沢敦ら、鹿島での「黄金の若者達」を得たのである。

 また、ジュビロ磐田を讚える言葉もあった。チャンピオンシップの2連戦で延長の末のVゴールにより、鹿島が通算スコア3対2で破った相手だ。「どちらも、高い資質、戦術、技術をもったチームだったと思います」。

 日本サッカー協会の後援者であり、皇室の一員である高円宮殿下のお言葉も、トニーニョのスピーチをサポートしてくれた。Vゴール・システムの延長戦で、小笠原のフリーキックにより鹿島が勝利した、チャンピオンシップの第2戦に、殿下はおふれになった。「中身の濃い、本当に素晴らしい試合でした」。
 「10日前、ヨーロッパと南米のチャンピオンが戦うトヨタ・カップを東京で観戦いたしましたが、今回のJリーグの試合はそれよりずっと良かったように感じました」。

 高円宮殿下のすてきなお言葉と本人のすてきな阿波踊りは、トニーニョ・セレーゾがスポット・ライトの当たる場所では今でも特別な存在であることを教えてくれたのである。

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JリーグMVPの行方は・・・

2001/12/08(土)

 Jリーグ年間表彰式「2001 Jリーグアウォーズ」が月曜夜に迫ってきた。気になるのは最優秀選手賞を誰が手にするのかという事だが、今年は明らかなMVP候補が見あたらない。候補と呼べる選手は何人かいるが、さぞかし審査員にとっては難しい選択になるだろう。

 ファーストステージ、セカンドステージを通して鹿島アントラーズと競り合い、勝ち点では鹿島に17点もの差をつけたジュビロ磐田には2人の有力なMVP候補がいる。MF藤田俊哉とFW中山雅史だ。

 藤田はファーストステージのMVPに選出され、セカンドステージでは小さい故障があったものの好調を持続していた。彼の頭脳的なプレーとディフェンスからオフェンスへの転換能力はジュビロの好調の大きな要因であり、彼はMFのポジション争いさえ熾烈なものでなければ間違いなく日本代表候補だ。

 中山については、言うまでもなく1998年のMVPであり今年もゴールを量産した。彼は16ゴールでゴールランキングの6位であるが外国人選手がトップ5を占める中、日本人としては1位だ。
 また、彼をして真のプロフェッショナルと呼ばしめるのは、彼が今年の30試合全てに出場している事である。

 一方、日本代表監督、フィリップ・トルシエのお気に入りであるアントラーズの若きMF中田浩二もまたMVP候補だ。彼はチームの守備的MFとして、また代表チームの左バックとして、そして素晴らしいオールラウンドプレーヤーとして成長してきた。

 コンサドーレ札幌のブラジル人ストライカー、ウィルは大分トリニータからの移籍後驚異的なJ1デビューを果たした。戦力的にはやや劣るコンサドーレにあって彼はリーグ1位の24得点を挙げ、それこそ彼の孤軍奮闘でチームはリーグ戦を闘い抜いた。

 名古屋のウェズレイと並んで21得点を挙げ得点ランキング2位タイは、こちらもJリーグルーキーの崔龍洙(チェ・ヨンス)である。
 崔は安養LGチタスからの移籍後、故障でシーズン当初は出場できなかったものの、ジェフ市原で調子を取り戻すのにそう時間はかからなかった。彼はアグレッシブな点取り屋として来日したが、充分その片鱗を見せつけたと言ってもよいだろう。

 難しい選択ではあるが、私ならば毎シーズンJ2への降格と闘っていたジェフ市原をリーグ3位に導いた韓国人ストライカー崔のMVPと、最優秀監督としてはズデンコ・ベルデニック氏を選ぶ。

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「西澤は大きな間違いを犯している」元セレッソ監督のレネ氏が語る

2001/12/02(日)

2001年12月2日(日)釜山
by ジェレミー・ウォーカー
 元セレッソ大阪監督、レネ・デザイェレ氏は日本代表FW西澤明訓がJリーグを去った後、彼のキャリアは後退し続けているとしか思えないと考えているようだ。レネ氏は西澤が海外でプレーするにあたって、ベルギーでプレーする事を勧めたらしいが、西澤はもっと華やかなリーグでプレーする事を望んだようだ。

 土曜日のワールドカップ抽選会に来ていたベルギーのサッカー協会の関係者も「私は西澤にベルギーのチームを紹介する事もできたんだ。そこでなら彼は選手としてもっと強く成長し、また彼のプレーをより向上させる機会に恵まれたはずなんだ。しかし、彼は既にオランダでプレーしていたし、それについてはもうウンザリだと言ったんだ」と、海外移籍についてそう語った。

 また彼は「もし西澤がベルギーに最初に来ていたなら、そこからスペインリーグでもイングランドのプレミアリーグでも行く機会はあったはずだ。結局彼がスペインへ行き、今ボルトン・ワンダラーズへ行った事は3年の無駄だったと思うよ」と付け加えた。

 それを裏付けるように、スペインでの西澤は結果を出す事ができず、今またボルトンではベンチ入りするのにも四苦八苦の状態だ。その結果として、西澤は日本代表のフィリップ・トルシエ監督に代表選手として選出するべきかどうかの判断材料さえ見せる事ができずにいるのだ。

 一方、レネ氏は来年のワールドカップ1次リーグ第1戦のベルギー戦は、日本代表にとって、ディフェンスこそがキーであると警告している。日本代表は6月4日(火)に埼玉スタジアム2002で、ワールドカップ常連国、ベルギーとの対戦でグループHの試合の口火を切る。レネ氏は日本が勝ち点3を挙げる事にこだわってはいけないと言う。

 日本はベルギーに勝てるかと尋ねられ「もちろんだとも!そりゃあ簡単ではないだろうが、引き分けならもっと可能性はあるさ」彼はそう答えた。「日本は守備的な良いチームだ。一方ベルギーは統率のとれたチームで、日本に対してはカウンター攻撃を使ったゲームをしてくると思うよ」

 さらに言葉を続けて、「日本は守備に重点を置いた試合運びをするべきだね。それがキーだ。それができなければこれは問題だね」さらに「日本のサポーター達はベルギーがそれほど強くないと思っているし、ベルギーとの対戦をラッキーだとさえ思っているから代表チームへの期待は大きい筈さ」と言った。

 過去の日本対ベルギーの対戦は1999年6月3日の東京・国立競技場でのキリンカップのみである。その試合は0−0のドローに終わったが、ベルギーは来年の埼玉での対戦が同じ結果に終わっても良いと思っているだろう。

 レネ氏は、ベルギー代表チームについて、統制力と組織のサッカーに定評があるが、攻撃力についても光るものがあると言う。「エミール・ムペンザ、バート・ゴール、マルク・ビルモッツが率いるベルギーのオフェンスは強力だし、ウェスリー・ソンクも注目すべきプレーヤーだ」レネ氏はそう付け加えた。

「日本が勝利するのは決して簡単ではないだろう。しかし開幕戦でもあり、過去のワールドカップ開催国は全て2次ラウンドに進出している。ロシアやチュニジアも強いチームではあるが、私は日本には2次ラウンドに進出できる力が十分あると信じている。グループHは非常にバランスのとれたグループで、ゲームとしては点差の開くようなゲーム展開にはならないだろう。グループHの4チーム全てに2次ラウンド進出の可能性があるのだ」

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