2010年3月30日、カザフスタン アルマトイより
この記事の日付欄がすべてを物語っている…。私はいま、仕事でアルマトイにいる。周囲に見えるのは雪を頂いた山々、気温は氷点の少し上で、日本サッカーは100マイル向こう…。
20数年前に初めて日本を訪れ、1997年から2009年にかけてこの地で仕事をしてきたが、残念ながら、私のJリーグの旅は終焉を迎えた。同じように、日本サッカーについて書いてきた連載コラムも。
Jリーグでは、発足から長年にわたって素晴らしい経験をさせてもらった。私は1993年の発足年に香港からたびたび日本を訪れるようになり、やがて1997年から東京でフルタイムの仕事をするようになったのだが、今回、アジア・スポーツに関する私のキャリアをさらに高めるために、中国に移る決心をし、この11月に広州で開催されるアジア大会の開催準備、ならびに大陸全体にわたっての広報活動の仕事を、アジア・オリンピック評議会のために行うことにした。
かつてのアジアクラブ選手権でかつての読売が、香港で最も人気のあるチーム、サウス・チャイナと香港スタジアムで戦うのを見たとき、私は日本に行ってみたいという衝動に駆られた。1990-91シーズンのことで、このときの記憶は、90分間ずっと中国のファンがたくさんのものを日本ベンチに投げつけていたこと、それからザンバラ髪の魔法使いラモス瑠偉の風貌によって、今も私の胸に残っている。
こうして私と日本サッカーとのかかわりが始まり、その後1995年の夏に代表チームがアンブロカップのためイングランドに遠征したとき、私は、いつか香港から日本に移り、このサッカー文化が急速に普及している国で何が起こるのかを目撃したい――という思いを強くした。
このような旅を後悔したことは、一瞬たりともない。旅の途上では、フランス、日韓、ドイツという3つのワールドカップ(W杯)の取材もした。W杯期間中の日本代表の試合で私が観戦しそこなった唯一の試合が、2002年のトルコとのホームゲームである。大会第2ラウンドの取材で私は韓国にいたのだが、日本が0-1で敗れたとき、メディアセンター中の韓国人がみな歓声を上げ、祝っていたことは忘れられない。なんという協力関係だったことか!
週に2本のコラムを執筆するのは楽しみ以外の何物でもなかったし、一人の英国人――若いころはテラスで観戦し、ニューカッスル・ユナイテッドを追いかけて国中を移動しながらフーリガン全盛の時代を生き残り、その後イングランド北東部の朝刊紙でニューカッスル・ユナイテッドの記事を書くという若き日の夢を掴んだ英国人――の視点が少しでも日本のサッカー・ファンの話題に上ってほしいと願っていた。
私の寄稿と意見はしばらくの間、お休みしなければならない。先のことなんて、誰に分かるだろう? ニューカッスル・ユナイテッドはまた復興するし、それにジェフユナイテッドだってそうかもしなれないのだから、私がここへ戻ることだって、あるかもしれない…。
日本のサッカー、そして日本のサッカーをとても特別なものにしたファンの皆様に心からお礼を言いたい。グッドラック、ジャパン!