立候補したい気持ちもわかるけど…

2010/02/02(火)

2010年2月1日:2018年または2022年のワールドカップ開催地に立候補している国のなかには、すぐにでもこのイベントを開催できるところがいくつかある。そのうちの一つは、もちろん日本で、大会の円滑な運営と成功を保証するのに必要なスタジアム、インフラストラクチャ、ファン層をすべて持ち合わせている。
ただし、そうだからといって日本が再び開催地に立候補するのが名案だとは私は思わない。とくに2002年に韓国(同じように2022年開催に限定して立候補を表明)とワールドカップを共催したばかりのこの時期には。

まあ、日本の開催地立候補もわからないでもないし、過去の代表監督であるフィリップ・トルシエやジーコイビチャ・オシムをはじめとする多くの人々の支援もあるにはあるが、私には、勝つチャンスはひいき目に見てもごくわずかであり、勝つ確率は2016年のオリンピック開催都市に立候補した東京よりもはるかに低いと思えるのだ。
第一に、2018年ワールドカップはヨーロッパ開催が確実な情勢だ。フットボールが隆盛しているこの大陸で2006年のドイツ以来ワールドカップが開催されていないということになるからだ。FIFAのゼップ・プラッター会長もそのような発言をしており、他の大陸には開催の見込みはまったくないようである。1966年の開催国であるイングランドが2018年大会開催の本命と目されているが、ロシアもダークホースとして台頭してきており、12月のFIFAの投票でサプライズを起こす可能性も否定できない。

したがって、日本の最大のチャンスは2022年になるのだろうが、やっぱり私には日本以上に可能性のある国があるように思える。たとえば、これまで開催経験がなく、FIFA にとって新しいマーケット、新しいフロンティア開拓のチャンスとなる国々である。
具体的に言えば、オーストラリアが頭に浮かぶし、2022年はオーストラリアで開催してもいいと思う。オーストラリアは素晴らしいスポーツ国だし、ファンタスティックなワールドカップとなるだろう。オーストラリアはラグビー・リーグ(13人制ラグビー)やラグビー・ユニオン(15人制ラグビー)、オーストラリアン・フットボール、クリケットと比べてサッカー(この場合、まさに「soccer」という用語の使用が適切なのかもしれない)があまりなじんでいないという評論家もいるが、大都市のスポーツ好きな住民は大会を心から楽しむだろうし、ワールドカップを一つの長いお祭りに変えてしまうかもしれない。

2000年のシドニー・オリンピックのときにキャンベラとブリスベンで日本代表の試合を観戦する際にあちこちを旅したが、その雰囲気は信じられないほどで、もしワールドカップが開催されれば同じように素晴らしい雰囲気は再現されるが、その規模は海外からやってくる数千人の旅行者をも巻き込み、はるかに壮大なものになるに違いないと確信したものだ。

日本の立候補にはリスクはないが、正直言って、2002年からそれほど離れていない時期にまたも立候補を決めた理由、それから関係者が勝てると思っている理由が私にはわからない。
もし日本が2018年大会の開催地となれば、いや2022年大会の開催地になっても、南アフリカ大会で岡田武史監督の代表チームが準決勝に進出する以上のビッグ・サプライズとなるだろう。

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日本のマンチェスター・シティ、名古屋グランパス

2010/01/26(火)

2010年1月25日:現在、名古屋グランパスのファンはマンチェスター・シティのサポーターにかなり近い感情を抱いているに違いない。多額のお金を払ってスター選手を獲得し、タイトル奪取が話題となっているからだ。
名古屋についてとても興味があるのは、野心的な投資というポリシーを導入した最初のシーズンにトップまで上り詰めることができるだろうか、ということ。今回は監督のドラガン・ストイコビッチと彼の雇い主が求めていたものがはっきりと達成されたことになる。2011年のアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)の出場権を得られる3位以内というのはもはや目標にもならなくなり、狙うのはナンバー1だけなのである。

土曜日には、浦和レッズにいた闘莉王と大分トリニータにいた金崎夢生の二人の名古屋移籍会見が行なわれた。ストイコビッチ監督によれば、闘莉王は最近の数シーズンはサッカーを楽しんでおらず、監督しての目標は、練習やサポーターたちとの交流の場で闘莉王の顔に笑顔をとり戻すことだという。
また、ストイコビッチ監督としてはささいなケガでもすべて完治させて欲しいと思っているだろうし、ワールドカップ・イヤーにおける闘莉王の変身によって、天皇杯決勝で失ったACLの 出場資格が再び名古屋にもたらされるかもしれない。

私個人としては、闘莉王の名古屋移籍が決まったときには少しがっかりした。そもそも移籍先の話題はヨーロッパのチームばかりに集中し、とくにウィガン・アスレティックFCトウェンテが有力視されていたからだ。闘莉王の野望はヨーロッパでもそれなりのリーグでプレーし、より高いレベルで自身を試すことであるのだと私は思っていたのだが、言うまでもまくピクシーはとてもカリスマ性のある、魅力的な人物で、さらに上記の2クラブでは、日本で提示されたようなサラリー(推定年俸1億5,000万円)を受けとることはできそうにない。

金崎の加入は、名古屋にとって大きい。彼のことを私は、岡田武史監督のワールドカップ代表メンバー入りのダークホースである、とみている。彼のスピード、ひらめき、意外性は日本の攻撃陣のオプションを増やしてくれるかもしれず、とくに厳しい試合の最後の20分間にベンチから送り込むと効果を発揮すると思えるからだ。
シーズンが終わった時にはアントラーズレッズをはじめ、ほとんどすべてのクラブが金崎を獲得したがっていたが、彼は名古屋を意中のクラブとしており、その思いを貫いた。

グランパスのファンにとっては心躍る時期だが、たくさんのお金をかけて作り上げたチームですぐに結果を出さなければならないピクシーにとっては、重責を負ったシーズンが前途に待ち受けていることになる。その気持ちはマーク・ヒューズ(マンチェスター・Cの監督であったが昨年12月に解任)ならよく分かるかもしれないね!

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稲本にも、岡田監督にもグッド・タイミング

2010/01/19(火)

2010年1月18日:稲本潤一がワールドカップ・イヤーの年頭に帰国し、川崎フロンターレ入りするのには納得だ。かつてのガンバのアイドルはこれまで数シーズンに渡ってヨーロッパで苦労を重ねてきたが、フランスの地は彼にとってはもはや「遠すぎた橋」であり、撤退すべき時期にさしかかっていた。非常に困難な環境のスタッド・レンヌではそれほどの印象を残すことができず、彼はついに、「もうやることはやった、Jリーグに戻ろう」と決心したのだ。
稲本にとってはグッド・タイミングである。南アフリカに向けての代表チーム強化の過程で彼にスポットライトが当たることが多くなるだろうし、彼自身も毎週、試合勘を養うことができるからだ。

代表監督の岡田武史にとっても、これは嬉しいニュースとなるだろう。レンヌのベンチで陰に隠れた存在となる代わりに、「イナ」が継続してプレーできることは分かっている。中盤のエンジンルームについては、岡田監督のお好みは長谷部遠藤のコンビなのは明らかだが、稲本がスタメンに割って入る可能性もまったくないとは言えない。彼のボールを奪う能力、身体的な強さと経験は日本代表にとって大きな戦力となるからだ。

また、すでに整っているチームに稲本が新加入したフロンターレでは、高畠監督が新シーズンの開幕週にどのような選手起用をするのかも興味深い。昨シーズン、関塚監督が好んでいたのは、中盤の中央で谷口横山がプレーし、(中村)憲剛がピッチを幅広く動き回るかたちだった。
谷口と稲本は、似ている点がとても多くある。二人とも自陣から相手陣まで精力的に動き回り、自陣の深い位置から駆け上がって攻撃に参加する選手である。もっとも、空中戦にかけては、稲本も谷口の非凡な能力にかなわないだろうが。
横山は関塚監督のお気に入りだったが、谷口と稲本が強力なコンビネーションを築けるのが証明されると、レギュラーに入るのは難しくなるかもしれない。

実は私は、2シーズン前に高畠監督が指揮を執った際に採用していた、憲剛と谷口のパートナーシップを中心とした実質4-2-4のフォーメーションが好きだった。おそらく高畠監督は今回もこのかたちを試すものと思われ、その際には憲剛がフォワード3人の後ろというはるかに前の位置でプレーし、稲本が谷口の横に来るのだろう。

名古屋グランパスと同じように、フロンターレも戦力層が厚く、それぞれの監督は適切な組み合わせを発見するまで時間がかかるかもしれない。ただし、稲本がベンチで過ごす日々が終わったのは確かであり、Jリーグ全体にとってもこの人気者の復帰はメリットとなることだろう。

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バヤリツァも期待する吉田麻也の海外移籍

2010/01/12(火)

2010年1月11日:本田圭佑VVVフェンロからCSKAモスクワに移籍すると、今度は同じく名古屋グランパスに所属していた吉田麻也がオランダに移り、フェンロのジャパニーズ・コネクションを維持する。
では、この若きセンターバックはオランダでとの程度やれるのだろうか? 結局のところ、海外に移籍した日本人ディフェンダーはそれほど多くはいない。海外のクラブは、日本人トップ・プレーヤーのディフェンス力ではなく、創造性やテクニックに着目するのが普通になっているからだ。

吉田の実力判断にかけては、かつて名古屋のディフェンス中央で彼とコンビを組んだミロシュ・バヤリツァ以上の人物はいない。二人とも、名古屋での最後のゲームが元旦の天皇杯決勝となり、バヤリツァは残留せず母国のセルビアへ旅立とうとしていた。
要約すれば、バヤリツァは、吉田にはヨーロッパで成功する要素がすべて揃っていると考えているが、吉田はもっと強くなり、ミスを減らさなければならないとも感じているようだ。
「あのリーグは難し過ぎるというわけじゃないし、日本に似ているから吉田なら上手くやっていけると思うよ」とこのセルビア人は言った。「まだ21歳という若さなのにとても物静かで、自信を持っている。空中戦は強いし、ゲームも読めるようになりつつある」。

ただし、バヤリツァもご多分に漏れず、日本的なお行儀の良さ――たとえば、ファウルをしたあとに相手に謝ったり、手を貸し立ち上がらせてやったり――が、ヨーロッパでは災いするかもしれない、と指摘をしている。ヨーロッパでは競争がもっと激しく、練習でもスタメン入りを目指して選手がしのぎを削っているからだ。
日本での美徳やしきたりは忘れ、大きな失敗をしないように注意したほうが良いだろうね。ヨーロッパで大きな失敗をすると、チームから弾き出されるというのが普通だからね。それだけは気をつけないと」。

これは、吉田のプレーのなかで私もはっきりと気づいていた点であった。とくに、ボールをしっかりコントロールするかわりに、胸でボールの方向を変えチームメートに渡そうとする、彼のあのやり方には困惑していた。あれはとても無造作で、リスキーなプレーであり、オランダでは即座に禁止されるような類のものなのである。
バヤリツァに同じよう感じているかと尋ねると、彼はこう答えた。「彼は若いよね。あれはジャパニーズ・スタイルなんだよ!」。

本田がロシアのビッグ・クラブに移籍したように、吉田もフェンロで地位を築けば、同じようになるかもしれない。最初の試合は1月14日のフェイエノールト戦だ。
「フェンロが足がかりになるかもしれないね。彼はとても若いし、私が来た最初の頃よりずっと進歩してプレーのレベルも上がっている。彼を手助けし、指導し、それから場合によっては彼をなだめることもしてくれるような選手がチーム内にいるともっといいんだけどね」とバヤリツァは会話を締めくくった。

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ごめんね、ピクシー、でも判定はまったく正しかったよ

2010/01/04(月)

2010年1月2日:ドラガン・ストイコビッチのことは大好きだし、尊敬もしているけれど、元日の「玉田事件」についての彼の見解には同意しかねる。
要約すると彼は、74分にガンバのペナルティエリア内で玉田圭司が倒れたとき、グランパスにペナルティキック(PK)が与えられてしかるべきだった、と考えていたのだ。その時点でのスコアは1-1であったが、PKが与えられていれば、「ガンバ4-1グランパス」というスコアとはまったく異なった結果となっていたかもしれない、とグランパスの監督は試合後の記者会見で述べた。

ピクシーには悪いが、ダイビングとみて玉田にイエローカードを出したレフェリーの扇谷健司の判断はまったく正解だと私は思った。右サイドでじっくりとした組み立てがあったあと、玉田がガンバのボックス内に突進した。そのときの彼の体勢は右足でシュートを打つのに最適であったが、彼はシュートの代わりに体を地面に投げ出し、PKを得ようと考えたのだ。
玉田が圧倒的に得意とする左足の方にボールがあれば、おそらくシュートを打っていただろうが、利き足でないほうにボールがあったため、彼はそのシュートの機会を生かそうとはしなかった。ダイビング/シミュレーションに対するイエローカードは当然であり、私はレフェリーのこの断固たる処置を評価した。何と言っても、この日はニューイヤーズ・デイ(元日)であり、エイプリルフール・デイではないのだから。

ただし、ピクシーの見解は異なっていた。「PKが与えられてまったく当然であるのに、玉田がもらったのはシミュレーションに対するイエローカードだった」と彼はメディアに語った。
「シミュレーションだったのかどうかは私にはわからない。ロッカールームで玉田の話を聞いただけだが、彼はガンバのディフェンダーと接触したと話していたよ。ベンチから見た感想を言えば、ガンバはとてもラッキーだったね」

このような状況下では、監督は選手に対して、なぜシュートを打つ代わりにダイブしたのかを問い詰め、さらに場合によっては選手を叱責して欲しいと私は思う。こうしたことは公の場で行なう必要はないし、試合後2、3日して冷静になってから2人だけで面談してもいいだろう。
ピクシーの言うとおり、結果はまったく違ったものになっていただろう――ただし、「レフェリーがPKを与えていたら」ではなく、「玉田があの明らかなシュートチャンスをものにしていたら」と仮定すればだが。

ガンバについては褒め讃えるしかない。天皇杯優勝に値するだけのファンタスティックなプレーを見せたし、アジア・チャンピオンズリーグの出場権をすでに獲得しているのにあれほどのモチベーションと集中力を発揮できたのは驚きであった。

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国立でのコールドプレイ――黄色いシューズ以上に光った安田

2009/12/31(木)

2009年12月30日:火曜日の国立競技場、冬の日差しのなかで安田理大が輝いて見えたのは、その目も眩むような黄色のシューズだけが原因ではない。彼のパフォーマンスも晴れやかで、すがすがしく、ガンバ大阪が天皇杯準決勝でベガルタ仙台を2-1で下すのに貢献していたのだ。

12月20日に22歳になったばかりの安田は、ガンバとオリンピック日本代表の両方で向こう見ずな左バックとして名を馳せたが、この試合では出場停止処分中の加地亮の代役として務めた右サイドでとても居心地が良さそうであった。前列の中盤で堅実かつ機智に富んだプレーを見せていた橋本英郎とのコンビは、その午後を通じて右サイドをしっかりと支配し、仙台に危険なプレーが生まれるのを防いでいた。

前線に駆け上がったときの安田は、試合序盤にはゴールに繋がるクロスを供給していた。ルーカスの先制ゴールは、彼のクロスに対する相手キーパー林卓人のパンチングが小さいのに乗じたもの。
また守備面ではとくに自陣ペナルティエリアで上手く相手の攻撃を防いでいた。素晴らしかったのは36分に仙台のストライカー中島裕希から見事にボールを奪ったプレー。ゴール裏の仙台ファンは、あれはファウルでPKが与えられるべきだとアピールしていたが、安田の見事なディフェンスであり、クリーンに体を寄せてボールを奪い、コーナーに逃れたものだった。

その後、後半の終盤には左サイドを攻めあがってきた仙台の攻撃陣のプレッシャーを受けなければならなかったが、しっかりと地に足を付けてボールに集中するような成熟ぶりと落ち着きを見せ、慌てふためいてフリーキックを与えたり、無謀なタックルで退場処分を受けたりするような危険を冒そうとはしなかった。

安田はずっと集中し、プロらしい振る舞いをしていたので、試合後に彼がガンバ残留の決意をし、将来の見通しがはっきりしたということを聞かされても驚くことはなかった。
結局のところ、最近の数ヶ月は彼にとってフラストレーションのたまる期間だったのだろう。左サイドとしてはセンターハーフからコンバートされた高木和道、それから下平匠に次ぐ第三の存在、右サイドとしては加地に次ぐ第二の存在と見られているからだ。そのため早々に移籍を決断してもおかしくはなかったのだが、彼はガンバのためにプレーする道を選んだ。

火曜日は何から何までサッカーにうってつけの日であった。天候は完璧(公式には摂氏3.3度)で、試合開始は冬の日差しがまばゆい午後3時、試合終了時には照明が点灯され、このおなじみのスタジアムの上空には満月に近い月があった。
いつも思っているのだが、日本のサッカー・シーズンがこのように理想的な時期に終了するのはとても残念である。現在の日程では、選手もファンも蒸し暑い夏の7月と8月に試合をこなさなければならないが、このような季節はまったくサッカーには適していないのである。

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ワールドカップ前に11試合? それはいくらなんでも…

2009/12/28(月)

2009年12月25日:先日、2010年ワールドカップまでに、日本代表が11試合を予定しているという発表がなされたのだが、私にはいささか驚きだった。
11試合だって? そんなにたくさん試合をする必要が本当にあるのだろうか? ざっとひと月に2回。これは多すぎるのではないだろうか。しかも、これらの親善試合の対戦相手には、10月のトーゴ戦のような茶番でなく、試合をする意義のあるプレーを期待しなくてはならない。

1月6日にアウェーで行なわれるアジアカップ準々決勝のイエメン戦、そして3月3日、ホームのバーレーン戦は国際Aマッチであり、この2試合では岡田武史監督は選手を幅広く使ってみることができる。そしてさらに2月初旬、東アジア選手権の3試合がある。これらの試合は選手交代も通常の3回しかできないため、日本代表にとって、特に中国戦と韓国戦は良いテストとなるはずだ。また、これらは決して楽観できる試合ではなく、フィジカルで厳しいものになるだろうが、日本代表はホームでの東アジア選手権3試合すべてに勝つべくベストを尽くすことだろう。

つまり、前哨戦としてまずまずな試合が5試合あるということだ。だが、ワールドカップで対戦するのはアフリカのチームとヨーロッパの2チームであるのに、この5試合の対戦相手は皆アジアの国だ、という問題点もある。とはいえ、オランダ遠征でオランダガーナと対戦したのもそんなに昔のことではないし、南アフリカとも戦っているので、日本代表がヨーロッパやアフリカのチームとの対戦経験が不足しているとはいえない。

日本がアジア以外のチームと、できればアウェーで2試合ほどした方が良いという点は、私も認めよう。だが果たして、上記の5試合以外に予定されている6試合すべてを行なう必要があるだろうか?
個人的には2試合、最多でも3試合で十分ではないかと思う。さらに言えば、できればこれらの試合はヨーロッパのシーズンが終わるまで待つのが望ましい。そうすることによって、岡田監督はJリーグの選手とヨーロッパ組の選手とを両方使えるではないか。
3月から5月にかけて、6月14日のカメルーン戦の前はあちこちで親善試合をするより、国内でしっかりした通常練習を行なう方が、選手たちにはよほど役に立つはず。私はそう思っている。

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岡田監督がヤングブルーたちに込める新年の希望

2009/12/24(木)

2009年12月24日:ベテランたちに年始の休暇を与え、その代わりに若手の新顔を何人か1月6日のイエメン戦に招集するという、日本代表・岡田武史監督の興味深い試みを歓迎したい。
2011年アジアカップ予選であるこの試合は、真剣勝負なので、若手の日本代表であるヤングブルーたちにとっては絶好の学びの場となるだろう。また、すでに経験豊かな選手に負荷をかける必要も全くなかった。何といっても1月1日まではまだ天皇杯の試合が残されているし、2月の上旬には東アジア選手権も控えている。

注目すべき選考がいくつかあった。とりわけ注目を集めたのは、先ごろ香港での東アジア大会で銀メダルを獲得したU-20代表選手の招集。
ディフェンスの村松大輔(湘南)は、中央のディフェンダーとしてはすでに実績十分と言える風格があるように見えたし、攻撃面でも優れた感覚を見せ、決勝の香港戦ではゴールも決めていた。ストライカーなら、ゴールを狙う者なら誰でも、自慢したくなるようなゴールであった。
中盤では、青木拓矢(大宮)と山村和也(流通経済大)がエンジン・ルームで際立った働きをし、他の選手が前線に攻め上がった際にチームのバランスを保ち続けていた。まだ大学生の山村は、東アジア大会に向けたJFA(日本サッカー協会)の公式メディア・リリースではディフェンダーとしてリストアップされていたが、大会では守備的ディフェンダーとして活躍した。

前線のメンバーでは、永井謙佑(福岡大)と大迫勇也(鹿島)がイエメン戦に招集された。永井は、以前のコラムで書いたように準決勝の韓国戦の121分に決勝点となる素晴らしいゴールを決めた。相手のディフェンダーと前に出てきたキーパーのプレッシャーを受けながら、ゴールのファーコーナーに決めたものだった。
もっとも、大迫のほうは持ち味を十分に発揮することができなかった。本来なら、香港でのプレーよりはるかに良いプレーができる選手だ。韓国との準決勝では彼のワントップとなったが、ターゲット・マンとしての役割は居心地が悪そうで、ボールコントロールとパス回しがうまくいかずに落ち込んでいるように見えたが、決勝の香港戦ではやや下がり目の位置となり、ゴールに背を向けるのではなく、ゴールを前にしてボールを受けられるようになったので、デキははるかに良くなっていた。

大迫には来年6月のワールドカップ南アフリカ大会で岡田ジャパンの一員となれるだけの能力がある、アントラーズの監督オズワルド・オリヴェイラはそう考えており、昨シーズンはこの若手フォワードの学びの期間であると捉えていた。「大迫は来シーズンには間に合うよ」とは、先日のオズワルドの言葉――この言葉を信じようではないか!
長身の平山相太(F東京)と自信満々の渡邉千真(横浜FM)もフォワードとして招集されているので、イエメン戦では大迫はおそらくベンチスタートとなるだろうが、岡田監督はオズワルドの言葉が真実であることを証明するチャンスを必ず与えてくれることだろう。

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俊輔についての岡田監督の言は正しい

2009/12/21(月)

2009年12月18日:不遇を託(かこ)っている中村俊輔に、強力なサポーターが現れた。岡田武史監督である。
ハイペースのスペイン・サッカーになかなか対応できずにいる中村だが、岡田監督は、エスパニョールでの最初のシーズンがどうであれ、来年6月のワールドカップでは中村が代表のキーマンであることに何ら変わりはないと明言した。

現時点では、この左利きのプレイメーカーはリーグで自身のポジションを確立できずにいる。リーガはテンポが速いだけでなく、テクニックも必要。そして選手、とりわけMFは90分間動けるだけのスタミナと、フィジカル面の強さが要求される。さらに、彼はリーグの強豪チームでプレーしているわけではない。これは、弱小リーグの強豪チームでプレーし、毎週のように彼の持てる限りのテクニックを披露できていたセルティックでの4シーズンとまったく違う。
中村がスコットランドからスペインへあっさりとステップアップできると考えていた人がいたならば、それはまったくの見当違いというものだ。何より、移籍した時点で彼は31歳だった。それは一般に選手のピークと言われている年齢よりも3歳過ぎていたのである。

最近、フィリップ・トルシエ氏とエスパニョール監督のマウリシオ・ポチェッティーノ氏が中村の悪戦苦闘についてコメントしている。中村に対して常に辛口で、彼を持ち上げるメディアを嫌っていたトルシエ氏は、岡田監督はワールドカップでは中村を先発から外すべきだとまで言った。トルシエ氏によれば、中村の存在がチームの他のメンバーを抑えてしまうことがあり、彼がいなければチームはもっとダイナミック且つ多種のオプションプレーを使えるという。

自身のレベルに完璧にマッチし、2009-10年シーズンを通して十分にプレーできることが確約されていたセルティックに残留することやJリーグの横浜F・マリノス復帰するのでなく、エスパニョール移籍を選んだ中村の決断は正しかったのだろうか?
これについては今週、岡田監督が語った言葉が的を射ている。監督は、中村の個性と野望を顕著に表したその決断を支持した。スペインでプレーすることは中村の夢だった。そしてこれが彼の最後のチャンスだったのだ。受けるのは当然である。

中村にとっては、マリノスに復帰し群がるファンとメディアの上に胡坐をかいて楽をするのが簡単な選択だった。だが彼は31歳というピークを過ぎた年齢ながら、そんな気分にはなれなかった。おそらく、“中村がマリノスへ”という話はまたすぐに出てくると思う。しかし私は、彼が少なくともシーズンが終わるまではエスパニョールに残ってくれることを願っている。

5月になれば状況もよりはっきりしてくるだろうし、岡田監督も、ワールドカップが近づけば中村の肉体的、そして精神的な強さの程度を量ることができるだろう。監督は、中村により厳しく接したり、クラブのためにプレーしていなければ国のためにプレーはできないと警告を与えたりもできるのだが、現時点では彼は正しいことを言っている。

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日本代表が香港で得た教訓

2009/12/17(木)

2009年12月16日/香港:20歳以下の日本代表チームは東アジア大会で銀メダルに終わったが、この大会で国際試合というものについて、それから前途に立ち向かう課題について多くを学ぶことができたのは確かで、その得たものは金メダル以上の価値があった。

その要因の第一は、香港スタジアムがすさまじく騒々しかったことにある。ホーム・チームが決勝に進んだため、チケットは完売。ぎっしりとスタジアムを埋め尽くした観客の数は3万2,000人にもなり、それぞれのフル代表が激突した最近のアジアカップ予選、香港対日本戦の観客数よりも2万人以上多かった。
ホーム・チームのサポーターの情熱は本物で、地元チームを心からの誇りとしていた。私は1989年から1996年まで香港に住み、かつて英国領であったこの地のあちこちで数百の試合を観戦したが、私の覚えている限り、今回の東アジア大会ほど香港のファンが地元チームを熱心に応援したことはなかった。まるで1997年の中国への返還以来、香港の人々が初めてスポーツによって自らのアイデンティティを確認したように思え、醸し出された雰囲気はずっと大きなイベントのそれに匹敵するものだった。

要因の第二は、ピッチだ。このように大きなスタジアムでありながら、残念ながらグラウンドの状態はビリヤード・テービルのように緑豊かで滑らかな日本のピッチとは大きく異なっていた。ピッチは傷みやすくなっており、シューズのスタッドで鋭くひねると、大きな芝生の塊が飛び散っていた。やっぱりそれも、日本の若者たちにとってはアウェーでの得がたい経験だった。

要因の第三はレフェリーであった。普段、私はレフェリーを批判することをできるかぎり避けるようにしている。レフェリーというのは務めるだけで十分に過酷な仕事だからである。しかし、日本がいくつかの不可解な判定に苦労していたのは確かで、とくに自陣ペナルティエリア付近で相手にフリーキックを与える判定ではそれが顕著であった。

もっとも、いちばん面白い判定は、延長の終了を告げるものだった。スタジアムの時計は明らかに14分49秒をさしていた。確かに11秒短かっただけかもしれないが、かなり珍しいことではある。日本の選手たちもそれが分かっていたようで、終了を受け入れ、ペナルティキックの準備をする代わりに彼らはレフェリーを取り囲み、スタジアムの時計を指差していた。レフェリーはそれに対して、自分の腕時計を指差した。おそらくその腕時計は、その日の試合前に旺角(モンコック)の露店でかなり安く値切って購入したものだったのだろう。

1-1のドローのあとのPK戦で日本は2-4で敗れたが、西村監督に率いられた若手選手たちは銀メダルより価値があるたくさんのお土産を持って返ることだろう。ひょっとすると、新しい腕時計も。

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